氣と傲慢

氣を訓練する者の中には傲慢な者がいる。というよりたくさんいるようである。何故なのか考えてみた。特に我々尤氏長寿養生功のように相手をコントロールする、飛ばす団体に多いようである。以前私が教えた大阪で集まった呼吸法の人間達には私と競争する者がいて、口の減らない者が多かった。もちろん、訓練の方法は全く違うものであるから、彼らの思うようにはならない。呼吸法ではただ身体をリラックスさせて緩めて、氣を上に上げるシステムだから、私の発勁の後は身体が上に上げられて、足が床についていない状態で飛んでいく。いつ窓を破って外に出るのかいつも心配するほどであった。もう一つ傲慢な者はあの尤氏意拳の宗家は心が幼稚で、私が日本を留守にして、他に教える者も居ない、己れ一人が頂点に立っている、チョット教えた勁空勁を意拳の最高究極のワザまで習ったと思って、傲慢にもそう公言していたものであった。私が創作した誰もが出来る初歩の技術である。傲慢の形はさまざまだがその出どころはその者たちの心である。少しチカラがついて傲慢になる者はその者たちの目標ゴールが浅いのである。見えないチカラで相手が飛ぶ、コントロール出来る、などの氣が蓄えられただけで自分を特殊な人間に思えてしまう。私にして見れば、鼻クソのようなものであるが本人には鼻クソではないらしい。師母との訓練がどのような、どれほどの激しいものであったか、知らないからだ。上には上がある。小さな井戸の中でしか練習出来ないので、傲慢になって当然だが、かと言って、どんな傲慢も許されることではない。小さくチカラがつこうが大きくつこうが、傲慢にならずに

明日の練習に備えるのである。死ぬまで修行である。死ぬ直前になったら傲慢に俺はこんなに練習したと自慢して良いと私は思う。

氣と柔道

氣が柔道に応用されて、オリンピックで金メダルを取ったことがある。以前、、 NHK の「挑戦者たち」という番組があった。私はこの番組が好きで、毎回、ビデオをアメリカで借りて見ていたものだった。中島みゆきがテーマソングを歌っていた。もうお分かりだろう。その中の一編に柔道の神永先生のオリンピックへの関わりを扱ったものであった。オランダの当時の日本では見たことも無い二メートルを越す身長、体重百五十キロの熊のような巨漢と対戦して、敗退する。その後、日本の柔道は誰もがバーベルを使ったトレーニングに切り変わる。神永先生はオリンピック代表監督に就任して何回か金メダル奪還を目指すが、日本柔道の低迷は続く。そして、ついに身体の柔らかい小柄な選手を発掘してオリンピックに向けて準備する。秘策として小柄な日本選手でも負けない技を伝授してロシアの巨漢選手に対抗する。どんな巨漢の者でも技のかけ始めはスピードが遅い。相手が投げようとした瞬間に相手の柔道着を掴んでいる手を柔らかく相手の胸にそえると、相手はチカラを出せずに投げられない。結局、この小柄な日本選手が金メダルを取ってしまった。この選手は現在、柔道連盟の会長になっている。この番組を私は涙無くして、見ることが出来なかった。この技は氣の応用である。神永先生はこれを氣とは呼ばなかったが、長年の鍛練の後にご自身で発見したに違いない。決勝で戦ったロシアの選手はこの時の試合を振り返って、あれは不思議な試合だった。技をかけようとしてもチカラが入らずに投げられない。逆に日本選手がドンドン技をかけて来て負けてしまった。まるで柳の枝がしなって、受け流しているようであった、と。私には状況を聞くだけで、これは氣がチカラに勝った試合で小柄な日本人がチカラの強い外国人を打ち負かした、世界的な実例である。柔道に限らず、相撲にも応用出来るものである。ちなみに神永先生は仙台出身で私と同郷である。私はこのことを誇りにしている。

人生を豊かに生きる知足の哲学

貧富貴賤の話しはした。豊かさを勘違いして金品がたくさんあることを豊かだと考えている者に忠告したい。特に、道場生からカネをむしり取るように供出させて、私の名を語り、九百万円の大借金をして、返済を拒んで逃げ回っている

神田真澄こと神田吉隆ことカネだ吉隆こと姜吉隆にこのブログ記事を贈りたい。豊かに生きるとは金品をたくさん持って、生きることではない。富を得て貧しく生きる者は、真に豊かには生きていない。真に豊かに生きる者は貧しくとも、精神的に貴く、豊かに生きている。富を得ても得ても満足出来ぬ者は心が餓えている。心が満足出来ずに盗んでも奪おうとするだろう。嘘をついても手に入れようとするだろう。どこまでいっても、足るを知ることはない。知足の智慧がない。愚かで、貪欲だ。真に豊かに生きる者はそんな愚かなことはしない。自分の稼ぎの中、範囲内で、精一杯人生を楽しむのである。

決して贅沢出来る生活ではないかも知れぬ。しかし、高級車高級靴などを望まない。足るを知っている。知足は智慧である。愚かな貪欲で一時の満足を得る為に手に入れた金品は氷のように消えてなくなることを知らないことは愚かで智慧のない行為である。真に豊かに生きる者は一時的な金品よりも長く永遠に他人と自分に役立つものを選んで努力する。この尤氏長寿養生功がそれである。神田真澄ことカネだ吉隆は私の名を使って、カネと一時的な名声は得たかも知れぬが、嘘と虚偽で得たカネと名声も氷のように消えてなくなる。豊かに生きる意味を理解していない。このようにして、誇りを捨てて、富を選んだら、掴んだものは恥であった。恥を引きずって生きることは、

貧しく生きることである。カネ持ちになって、豊かに生きようとした愚か者は

貧しく生きている。私は金品はたくさん無いが、他人を癒したり、投げ飛ばす氣はたくさん持っている。たくさんの人たちに良い影響を与えることが出来る。

私は日本に帰国以来、幸せを感じて、今は世界一の幸せ者であると思っている。

何をしても何処に居ても、嬉しい。楽しい。幸せだ。精神的に豊かに感じている。氣を持っているからである。氣をお金に換算したら、私は日本で一番の大金持ちである。何があっても怖くない。余裕がある。しかも、氣は宇宙に無尽蔵にあって、瞑想するとタダで貰えるのである。私はこの宇宙にある銀行に気づいた。面倒ないわゆる銀行の手続きは何も要らない。瞑想するだけで貴重な氣、お金を好きなだけ貰える。担保も要らない。 Good Deal である。こんな風に考えて、幸せに生きている私は、人生を豊かに生きているとは思わないだろうか?

拳風(チェンフェン)

この間の講習会にさまざまな武術家武道家が参加していたので、話しをブルースリーお得意の寸勁( one inch punch) に絞って one inch punch  と尤氏長寿養生功の zero inch punch という 私が創作した相手に突かせて、その時同時に発勁する技を参加者に披露した。腹を突かせて、腹の皮筋肉を柔らかく、でもパーンと張って相手を吹っ飛ばすワザである。あまりに武術的なワザで、未熟な者は見ただけでは理解出来ずに、あまりに簡単に吹っ飛んでしまうので、すぐに、未熟者は、俺にそんなことは通用するはずはない!俺にやってみろよ、このやろう、といきり立つので今まで公開して来なかったが、私の指導員にもそろそろ見せる、そして、講習会の動画にも、尤氏意拳が及びも出来ぬワザを見せてみようとの心が動いたので zero inch punch  と共に披露したのであった。私の修行時代にこんな出来事があった。私がジャンプを始めてから少し経って、師母が思い切り突いて来い!と私に言うので師母の正中線に拳を固めて突いていくと、何遍やっても、「不好、不好」のダメ押しだった。何ヶ月か何年かしてその修行は続いていたのであったが、私の脚力が相当について来たある日、いつものように正中線に向かって無駄と思われる突きを繰り出して見たところ、師母が師母が「不好」と言わずに「プーツァオ」と言った。私は意味がわからない。通訳を通すと、悪くないという意味であった。続けて「お前の拳には拳風がある。」と言ったのであった。この頃は師母も我々若い元気な者が現れたので、武術家としての心が動かされて、刺激されてそんな場面となったのであろう。私はとても喜び、感動した。百五十年前の先人達の仲間に入れたのではないかと。それ以降、私の修行はますます激しさを増して続けられた。私は毎日通った。雨の日も風の日も、クリスマスも祝日も、サンフランシスコに地震があった日も、訓練に明け暮れた。チョット待て、さすがに、地震の日は、私がキャンピングカーをサンフランシスコに持って来ていたので何日でもサンフランシスコに泊まっていられると思って、道場に行くと、師母が出て来て、私の顔を見て、「今日はもう帰れ。」と師母が言うので、すごすご帰宅したのであった。師母と私が訓練しなかったのは、この日が初めてだったと思う。この拳風という言葉には中国の武術の歴史と幅の広さ、連綿と続く師弟関係の心と技の繋がりを私は感じて日本のものと違う中国武術の風格をいつも感じるのである。

一事が万事

人の人格が賤しい者は何をやらせても、どんな分野で行動しても、例え、武術であっても、瞑想であっても、学業であっても、何をしても、それは賤しいものになって仕舞う。それは一事が万事という言葉で締めくくられて仕舞う。先回のブログ記事に書いて置いたが、貧富貴賤、誇り、恥等の人間の人生の基本的哲学を誤って選択すると賤しい人生になると言った。煎じ詰めれば、それは心ということになる。心が賤しい者は、何をしても賤しいのである。ひとつが賤しいことをする者は二つめでも賤しいことをしてしまう。10個めも100個めも同じことである。一事が万事ということになる。我が尤氏意拳の宗家創始総師範神田真澄こと神田吉隆、別名カネだ吉隆の事を言っている。当然、賤しい人生となる。賤しい人間であるからだ。新神道大本教では、元の本の意念から、想念から清くないと清いことにはならないと説いている。心から清くなって清くなる。心が賤しい者が打ち立てた武術は賤しい武術とならないか?心が賤しい者が教える瞑想は賤しい瞑想と言えないか?私の経験では賤しい武術と賤しい瞑想は習ったことはない。そう言えば、尤氏意拳のホームページにはいつでも女性の写真を掲載していることが何故だろうと感じていた。賤しい心はホームページまで賤しく作ってしまうということか?賤しく卑しい

尤氏意拳は一事が万事賤しく卑しいと言える。

虚飾の人生

私は虚飾の人生を歩む者はいるものか、と甘く考えていたようである。その甘い考えは撤回した。疑う訳ではないが、もっと人物を観察して、じっくり話しをして、援助する、カネを与える、何かを任せる等、等、、、、。外見を虚飾して、言葉を虚飾し、行動も虚飾する。そして虚飾は年月を経て噓になる。虚飾は形になって、高級車高級靴となって自分の周りに元モデルのオンナ達が現われる。とにかく、カッコ外見が大事だ。中身などどうでもいい、自分でもイケメンと思うほどナルシストである。自分を世間に

売り込んで、自分を認めてもらいたい。ここまで来ると、もう病気である。心療内科心理療法が必要になる。学歴にコンプレックスがあって、拳暦をごまかしてチョットの噓が拡大して、我慢出来ずに大きな噓も平気になってしまう。練習したことのない武術を過酷な訓練をしたと言って、新しい武術まで全部自称で作り上げてしまう。カネが足りなくなると百万単位で生徒に頼んで小金を持つ、他の生徒にカネの強要をする。私の想像ではない。私が二十五年に渡り、自分の目で見て、神田吉隆の生徒から聞いた話しである。虚飾は噓となり、罪悪感も持たないモンスターに変身する。働くことなど、借金の返済など面倒くさい。そんなことはくそくらえ、だ。自分の人生に泥を塗っても平気だ。カネと恥と賎を取り、貴と誇りを捨てた人生を歩むことを選んだ。尤氏意拳の宗家創始総師範神田真澄こと神田吉隆の別の名はついにカネだ吉隆となってしまった。哀れな人生である。

人生は選択の連続

貧富貴賤、誇りと恥、人生はこれらのコンビネーションを局面で、どれを選ぶかで一生が変わるのであろう。私はこの

尤氏長寿養生功を学んだ時に貧と誇りを選び、私の一時期の弟子(私が認めたことはない)神田真澄こと神田吉隆は富と恥を選んだ。私は世界で一番幸せになって、神田吉隆は世界で一番賎しくなった。ある局面とは、大塚の道場の経営がうまく行かなくなって騙してカネを供出させて、高級車、高級靴などの贅沢にそのカネを費やして恥な男としてレッテルを貼られた。損得勘定が先立つと、判断が狂って、冷静な判断が出来ずにこうしてついに賎しい人生となる。未だに返済の意志も示さずに謝罪の気持ちもないらしい。恥な行為を選んでいる。誇りはすでに、捨てたようだ。自称して武術家と言い、瞑想家と言う。その中身は富、賎、恥のあさましい人生を送る男である。人から恵んでもらい、ウソをつく。人生の選択を間違えた。貧と貴を選び、真面目に働けば、私にこれだけ追及されることは無かったはずである。親戚に勘当されることも、元道場生に見放されることも無かった。全て己れの間違った選択の連続で今になっている。人生はぶっつけ本番である。間違いは許されない。

誇りを捨てて、カネはその時持ったかもしれないが、カネは氷のように溶けてなくなった。夢幻のごとくである。私はすぐ消えるものには、興味はない。永久不滅の氣は一旦手に入れると、いつでも、どこでも、他人を助けて自分を助けてくれる。どうやら我欲で誇りを捨てて賎と恥を選んで取ったカネは氷のように溶けてすぐ消えるようである。貧と誇りを選んだ私はこの素晴らしい氣功を教授する名誉を得た。この名誉は永遠である。私の名は残り、神田真澄こと神田吉隆は汚名のウソつきとして尤氏意拳は忘れ去られる。人生の選択を間違えて、これだけの差が生まれる。実に怖ろしい。私は賎しい人生を送りたくない。選択を間違えなくて良かった。ますます、今、持っているものを大事にして貧しくとも誇りある貴い人生を生きたい。人生は素晴らしい。