被爆者と鍼灸治療

今年も広島の日を迎えた。私には

忘れられない被爆者で、私の医院を訪れた

患者の話をこの日、いつも思い出す。

原爆の日にほぼ中心地にいて被曝した。

瓦礫の下に身体は横たわり、身動き出来ない。なんとか這い出て、食料を探す。

何もない。どこかの施設で大豆の粉を大量に発見する。何日か何ヶ月だったか、もう忘れてしまったが、この大豆の粉ばかり食べたのだと言う。その後救援が来てヤケドなどチェックされたのであるが、どこも異常発見出来ない。

奇跡だった。その後に他にもいろいろヤケドなどあったのではあるが、大豆の粉ばかり食べた。それしかない。ヤケドは何故か癒えて、跡形も無くなっていた。

戦後、アメリカへ移住する。私のクリニックに来たこの患者を私はまじかに見て、

肌もチェックさせて頂いたが、何の

異常も認められなかった。ちなみに

この患者の主訴は腰痛であった。大分

前の話で、当時八十を越えていたから、もう存命はしていないと思う。もう時効の話である。

渡米後も何の異常も認められないのだと言う。腰痛は一度の治療で治り、帰る前に私は言った。、、、さんみんなで共有するべき話ではないですか?これは日本政府とアメリカの政府に公表してはどうですか?と。すぐに答えるに、いや、

私の子どもと孫が、父親が祖父が被爆者であると分かると、私の子どもと孫が被爆者の血を引くとして、日本人社会から差別

されるのです。いろいろな面倒になるので、もう良いのです。被爆者手帳も要らない、と。大豆の粉と言えば、きな粉であろうか?ヤケドした皮膚の再生を促して、有害な放射能を体外に排出した。

この患者は戦後、アメリカへ移住して、

一生懸命働いて、結婚して、家も購入して、家族も作ることが出来た。

何の異常も認められなかった。

八十を越えて生きた。

私は此の世の奇跡を見た。

放射能の問題は大豆の粉が有効であることをこの患者の身をもって、教えていただいたのである。私の患者はいつもそうだが、私の教師であった。

 

日本に二十二年、アメリカに四十三年、日本でも、アメリカでも私は情を持つ人の縁によって、助けによって、生きて

来た。情は人間関係の潤滑油である。

そして人生を前に進む原動力になって、

大きく影響を受ける時もある。尤氏意拳の神田真澄こと姜吉隆に今度は私が情を持って、接したのであったが、その情に仇するように私は利用された。情に感謝出来ぬ者は何も手に入れられない。

心は冷たく、自己の利己的な夢ばかり追って、しかもその夢と言うのは、カネ、名声と自己顕示で、

つまらない人物である。情のキャッチボールが出来ない。氷のような心で他人と対応する。たとえ、一時期でも情によって助けられたならば、情によって返すべきではないか?

渡したカネを返せとは言わなかった。母親がかわいそうであった。歳老いて、受験に失敗ばかりする息子を二人も持っている老女を私は見てはいられなかった。それでも自分のワガママを通す。ハッキリ指摘すると逆切れする。情を知らぬ人生は色のない虹のようなものだ。

 

 

修行時のケガ

私が尤氏長寿養生功を修練して、ジャンプのし過ぎで左膝を壊してしまった。

今では杖をつかないと歩けない。武術

武道の練習でケガをすることほど

つまらないことはない。私が依然

関わった武道の道場で、余りに強さを誇った結果、練習中に勢い余って、金的を蹴られ、余りの酷さに睾丸が腫れて

内出血して手術で睾丸を摘出した話を聞いた。本当につまらないケガであることは間違い無い。それもほんとに事故であったか疑問点もある。ワザを急所スレスレに寸止めをしたけども止められなかった。これはもう事故ではない。意図的でないにしても故意に近い事故であろう。

そんな危険な練習はしないことである。何遍も言うが、自分の人生を大事に、時間は大事に、身体もカネもダメージを受けぬように練習修行時には、特別に注意するべきである。指導者がケガをその場ですぐに対処出来る勉強をして、医療の資格でも取る、絶え間ない努力が必要だ。

そしてなによりそんな危険な練習は指導者が自覚して止める理性が必要だ。我が尤氏長寿養生功では、即治療可能な強い氣を訓練して私の他にも医師と医療従事者が控えているので安全で、安心出来る環境にあって、万全の体制をとっている。

氣を知る者と知らない者

最近氣を知らない者が氣功と称する

氣功もどきのまがいものを教える輩がいる。生徒を集めてカネを取る。まるで

詐欺である。アメリカには、こんな輩は多くいた。母国では何の経験も無くて

アメリカに来て、いっぱしの専門家と

して高い料金を取る。日本にも同じよう

なケースがあるようだ。どれほどの修行をしたか触れない。触れたら、嘘が

バレる。たった一カ月の訓練で、氣功と瞑想の専門家と名乗る。普通の日本人には、出来ない芸当だ。日本人ではないから、こんなバカなすぐバレる嘘をつくのだろうか?こんな嘘つき氣功団体に

集まった人間たちは何を求めているのであろう?そのウソ専門家の教える瞑想

にどんな効果を期待するのだろう?

もう一度私の修行年数を確認する。

私の修行年数は三十年である。毎日だった。

一日二回修行した。一回三時間半、

一日七時間であった。ジャンプの回数は

三百六十万回となった。瞑想の時間は

一万四千四百四十時間であった。

私個人としては、氣功を教えるにこれで

充分であるとは思っていない。もし

可能であったならば、もっと経験を

積んで日本に帰国したかった。

今でも、もっと氣を知りたいと思って

いる。死ぬまで修行である。

喜びは倍に悲しみは半分に

恥を忍んで、私の貧困とトラウマの半生を書かせてもらったが、私が貧困とトラウマの克服を尤氏長寿養生功に託したのは大恩ある師母が余りに無愛想、余りに厳しく、そしてその技法と瞑想が余りに

特殊で、挑戦するには困難であるが、同じ人間が、先輩道場生が、すでに存在しているので出来ないことではないと分析して、訓練修練を始めたのであった。

修練を始めてスグに中国人道場生の

、日本人に教えるな!の大合唱に、敢然と、師母がお前らはこの日本人に教えるなと言うが、こいつが毎日やって来て、上達するのを私が見て、どうやって、教えずにいられようか?と私とみんなの前で言い放った師母を私が見て、とても感動して感謝した。それから先は猛訓練を自分に課し、

その私の態度を見た師母と私の間に

愛が生まれた。今考えると、それは

もちろん、男女の愛であるはずはない。師弟愛である。頑張って、努力する者には教えようとする師母の意欲と期待に

私は、不思議にも、見事に答えた。

幼少の時に学校へ行っても、態度のおかしい先生は何も特別に私に関心を向けることも無かった。それに比べれば、私はこの師母の道場では特別扱いで、まるで、魚が水を得た状態であった。

私は来る日も来る日も、道場に通った。

休みはない。誕生日、クリスマス、

ナショナルホリデー、一日二回、五年間毎日通った。尤氏長寿養生功を学んで、私が

それまで持っていたトラウマの貧困と

母親との想い出は徐々に考えることも無くなり、その悲しみは半分になって、

喜びは倍になった。私の顔は生気に溢れて微笑みを浮かべるようになった。

二度目の結婚で妻は何時も、何笑ってんの?と言う。別に笑ってないよ、これが普通だよ、と言うが信じない。そう言えば、師母も顔がいつも笑っているようであった。人生に伴侶が出来ても、お互いに愛しあっていれば、悲しみは半分に、逆に喜びは二倍になる。

師母は例えば愛しい私の伴侶のような方であったと思う。

お互いに心良く愛しあっていたのだ。

師の愛と弟子の愛である。その愛の結晶

が太田氣功道場なのである。私は声を大

にして言いたい。尤氏長寿養生功は、

あなたの喜びを倍にして、悲しみを

半分にする!と。

秘技と伝統を守る

尤氏意拳の姜吉隆大先生は自称習ったとする、秘技秘術を、今はその動画を隠してしまい、許可無くして見ることは出来なくなっているが、

私が日本に受け継いだ尤氏長寿養生功は中国政府の政策の結果、文化革命でドクター尤老師と師母は拷問を受けて、その伝統と秘技は消滅しかかった。だが、アメリカに亡命後サンフランシスコに

行き着いた。余りの氣のチカラの凄さに驚く、

野望と野心を抱く輩が尤氏長寿養生功を覇権と金儲けの道具にする寸前に道場生を取り返した私は尤氏長寿養生功の秘技と伝統を

細々ながら、受け継ぎ、

守っている。

道統の不完全さを嘘と虚偽で隠して自称

秘技と称する動画

も隠しては伝統と秘技は守れない。私の氣功道場に戻りたくても戻れない。カッコがつかない。一度立ち上げた武術団体も解散することはカッコが悪い。集まった昔のダチの日拳の生徒もいる。しかし秘技と伝統を守るだけの修行経験も無い。前に行くも地獄、後に下がるも地獄、である。

嘘と虚偽が無かったならば、辿る道もあった。嘘は泥棒の始まりという。

嘘によって人生を誤る者もいる。

私は全力を尽くして、消滅しかけた

尤氏長寿養生功の伝統と秘技を守って、

日本に受け継いだのである。

その消えかけた灯火の火勢はだんだんと

強くなっている。

どんな消滅寸前の芸も術技もその伝統を受け継いで守ることにはお金とj時間がかかる。滅私奉公の志しと伝統秘技への

愛情が必要である。

 

 

 

 

通氣は赤児になること

太田氣功道場のホームページを読むと、通氣という言葉が良く出て来て、この通氣って何だ?っと思った方がたくさんおられたかも知れない。尤氏長寿養生功の瞑想とジャンプを繰り返すと、最終的には氣が丹田に降りて来て、通氣となる。

私が通氣になったのは1992年のことだから、四半世紀、二十五年になろうか。

日本人で通氣になったのは後にも先にも、私が最初である。それから、早いもので、二十五年が経った。そのずっと前から瞑想を毎日しているから、瞑想歴は三十年ということになるであろうか?

私の経験と師母の言葉と先輩との会話

から、通氣(トンチー)は、赤ん坊のような身体と心になる、ということであると

理解した。丹田に溜まった修練された氣は、下腹、おへその下の腹をポコンと出すようになって、血流の流れが良くなった肌は赤みがかって、体型は赤児になる。

心も赤ちゃんのように素直に、大人のずるさが無くなって、何にでも、ストレートになって、複雑なことは考えない。

生まれ変わるのである。不思議な、

不思議な感覚であった。回りの人の

反応も変わって来る。師母は通氣になった弟子が好きだった。師母も通氣になって、何十年も経っている。仲間が増えて

嬉しかったのである。自分の作った

作品のようなものである。特に私は

たった一人の日本人の道場生で、道場を

代表する者で、ジャンプの音は一番

強く重く、師母が瞑想するだけで、私の

赤ちゃんの身体は反応した。こんなことがあった。道路を歩いていたら、向こうから歩いて来た身知らずの女性が私の前に来てハグをする。何をするんだ?と、すぐに身体を離した。私が赤ちゃんの顔になって、その女性は私の氣を感じたのであった。ハグして、抱きしめたかったのである。一旦、大人になった身体と内面がもう一度赤児になるのはとてもむづかしい。狂ったように修練することである。筋肉痛が毎日あって、練習によって、自分のプライベートな時間は無くなる。瞑想三昧になる。険しい

道のりなのだ。二度目の人生の始まりなのだ。身体も再生する。病気やケガも早く治る。氣が上に上がることは死に

近づくことである。通氣に近づくと

氣を下に下げていく。丹田に降ろしていく。死を遠ざけるのである。

何故に尤氏長寿養生功を訓練する人達に

変化変革が起きて、末期ガンの患者が

元気になって、余命宣告をものともせずに医師が宣告した余命の年数を越えて生きるのか、

尤氏長寿養生功を訓練することによって、氣を下に降ろすと身体と心に良い影響を与える仕組みが理解できるで

あろう。