五臓六腑

東洋医学においては、臓器を病気の原因と考えて病理の構図を描いていたのであるが、現代の最新の医学においても、臓器から他の臓器に連絡メッセージを送る物質が放出されることが解明されて来ている。そして、臓器どうしがネットワークを持っていて、互いに連絡し合っていることも分かりつつあるということである。この意味は、東洋医学の哲学、病理が正しかったことが分かりつつある。臓器を根本と考えて、臓器を健康に鍛える氣功は人体に良い影響を与えることが立証される。氣功を訓練して、氣を患部に通すと患部の血流が良くなって、体温が一、二度増すことが医学的に実証されている。私の身体が日々、健常者に戻りつつあるのもこのことと関係があると思われる。師母が百歳を超えて生きたことは東洋医学と氣功が大いに関わった事実は否定出来ない。そして、私自身が、どんな薬や食べ物、指圧と整体を一回の初回で効果があるのも、そこまで、私が氣功で自分の身体を作り上げたことに他ならない。

信用と誠意

武術と瞑想、伝統のワザや文化芸術には、誠意と信用が不可欠だ。私が半世紀に渡って、関わった武術の世界でも、今まで見たこともない、誠意と信用が無い者がいる。尤氏意拳明光武道の自称、宗家創始総師範、と自分を自分で呼ぶオトコを私は1994年の神戸の地震の時から知っているが、このオトコほど誠意と信用が無い者を見たことがない。二十五年もこんなオトコと行動を共にするのは苦痛である。特にカネがらみの問題を起こして何の誠意がない。借用書に私の名前を書き、私のハンコを押す。こんなことをされたら、そんなオトコの信用は地に堕ちるだろう。それでも気にはしていないようである。社会を生きるに信用と誠意は要らないということか?もう一人、キッパリ道場の山地 花緒里というオンナは誠意がない、にも関わらず、チベット密教から来る我々尤氏長寿養生功の瞑想、座禅だけ教えている。立禅と氣功武術の勁空勁を学ぶところまで修行出来なかったので、簡単で、女でも出来る初歩の瞑想でお茶を濁して、雰囲気だけ作ってカネを取る。尤氏意拳の総師範と同じように誠意無く、人には誠意を見せろ!と迫り、本人は誠意が無い。信用と誠意の無い者がそれぞれ武術と瞑想を教えている。そして、両者共に本名を隠していたのであった。生い立ちを隠す為なのか、とにかく、自分に都合悪いことは何も言わない。誠意と信用が無い者が教員免許を取得出来るのだろうか?信用と誠意が無い者が日本拳法のチャンピオンと言えるのであろうか?そんな者に尤氏と言う名前を使って欲しくはない。信用と誠意のない者にチベット密教の瞑想を利用して欲しくはない。生い立ちのせいで歪んだ心は人前で目立ちたがり、他人を踏みつけても、その暗い目的を達成しようとする。巻き込まれた太田氣功道場にとって、私と指導員にとって迷惑である。自分一人が生きていくのに一体何人を巻き込み、迷惑をかけねばならないのか?信用が無いならば、少なくとも誠意だけでも見せたらどうか?誠意と信用を回復したら、私はこの情け無い両者の団体を認めよう。でも、心の歪みを取ることは至難のワザで、この者たちを知る私には信用と誠意を取り戻す努力など、どうでも良いと思う者たちなので、その可能性は無い。

前人未踏

不思議なことに、この嫌な、つまらない出来事で不愉快な想いをしている最中に、私の氣とワザに極端な変化が起きているのである。進化しているのだ。前述したように個人教授で氣功を教えているうちに自由な発想でワザを試していたら、さらに新しいワザの開発をすることが出来た。そのひとつがオバケ拳法である。相手は歩けなくなるほどに重くなって、空中に舞い上がるほどに投げられる。氣とワザが進化している。何とも不思議な感じである。状況的には獅子身中の虫に食われているような中でも、氣は増大してワザは進化する。根性がキツくて悪い者たちがどんなに組織を崩そうとしても、訓練は怠るな!と言う師母、ドクター尤老師の励まし、と思って、これよりますます、淡々と毎回の指導員たちとの訓練に打ち込もうと心を新たにしているのである。ドクター尤老師も師母もいない今の私は私の前に道は無く、一歩一歩自分で切り開いて行かねばならない。誰も経験していない未知の領域に足を踏み入れる。前人未踏の地は険しいが楽しくもある。この二名の反乱者が決して踏み込むことの出来ない地に続く道なのだから、

資格と資質

瞑想や武術を教え始める時には、資格と資質 ある者が教えることができるのではないか?資格と資質の無い者が教えている場合はどのようになるのであろうか?少なくとも、私が知る限りにおいて、キッパリ道場の山地 花緒里と尤氏意拳明光武道の神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆は資質と資格は無い、と一時期師匠であった私はキッパリと断言できる。資格のない理由は、姜吉隆は師母の写真と私の写真をホームページに掲載して尤氏長寿養生功の継承をしているかのような印象操作をして、その実、それしか知らない日本拳法を教えて、私から一ヶ月しか学んでいないワザを尤氏長寿養生功の秘技、とウソをつく人間性と、私の名前を使い、借用書を書いて、十年経った今でも、一円の返済も無い。こんな者には、武術を教える資格も資質も無い。キッパリ道場の山地 花緒里も、姜吉隆からニセモノ武術を五年学んで、そのニセモノに気づいて、太田氣功道場に入門して来たのであるが、急に上級者コースにムリムリ入って来て、一年経って、サッサと逃げるように退会直後に自分の瞑想道場を開いてしまった。私から学んだ期間はたったの三年で、瞑想を教える資格にはほど遠いのは明白だ。両者共に自称で、総師範と総大将と名乗って、恥も無く、月謝を集めている。尤氏長寿養生功の技術が素晴らしいので、短期間で学び、自分のしていることにちょい足ししたかったのである。ウソと虚偽の行動で私と指導員を騙したり利用して、自分の欲望を遂げようとする人間性を私は問題視しているのである。我々を騙したり、利用したり、裏切る行為は果たして、我々が初めてであったかも分からない。もしかして、こんな人生を送ってきたのであったやもしれない。忠告しておきたい。我々を騙したりした者は他の人をも騙す可能性がある。両者共に本名を言わない。何か都合の悪いことでもあるのか、ウソと虚偽の人間が良く使う手段である。私はこんな者たちに関わったことを後悔している。武術と瞑想は充分な時間の修練が必要である。こんな資格と資質の無い未熟な未成熟者には尤氏長寿養生功の武術と瞑想は荷が重すぎて、教えることなど、出来ないのである。

日本人

日本人にしては、珍しく、私の日本在住の期間は在米の期間より短い。だから、私には日本人として、日本には特別な想いがある。と言うよりも、日本人が、特別な民族であることが在米時に良く分かるようになって行った。在米時には、アメリカ人から日本のことについて良く聞かれることがある。簡単な素朴な質問にうまく答えられなかった。そこで、後になって良く考えたり、調べたりしているうちに日本のことが少しずつ理解出来るようになってきた。海外に実際行ってみて、比べても、やはり日本人は特殊である。アメリカは移民を積極的に認めるのである。トップレベルの移民もいるが、最低の、自国で、殺人を犯した者もアメリカの永住権、国籍を取る。しかも名前をアメリカ国籍を取得する時に変えることができる。隣人がどんな人種でどんな国から来たかは、私には選べない。そもそもアメリカ人がどんな先祖を持っていたのかも分からない。そこで、法律でルールを守らない者に罰則を与えて、法律を持って、国の統制を図る。人種、その背景、歴史、文化の違う人間が一緒に生活するには、当然なことだろう。そんな国に四十三年間もいれば、日本に帰国して、もう一度日本人として生きる上で、日本人、特に、私の入門して来る者は私のその人物を観察する眼は一般日本人のそれとは大きく違って当たり前であろう。私には永住権があったので、日本の旅行の際には新幹線乗り放題のレールパスという切符を買うことができる。そのパスで北は北海道から南は九州まで、旅行をして、日本文化の見聞を広げたのは当然で幸運であった。私が尤氏長寿養生功を教授し始めた時から気づくことがひとつあった。熱心に食い下がって、根掘り葉堀り調べ上げて来る者がいる。在日コリアンである。私の大学入学時に入学金を借りた友人の父親が在日コリアンであったので、私には在日コリアンに対しては差別偏見などは無い。感謝していたのだ。その借金も飲まず食わずで、入学後、一年で返済した。だから、アメリカで知りあったコリアンたち、特に在日コリアンとは悪い関係にはならなかったけども、ことこの尤氏長寿養生功に関して、あれほど執着心を持つのは何故だろうか?と疑問を持ったのである。在日コリアンとして差別偏見を経験した者が日本人を憎んだり、恨みを持つ者がいるのは心情として理解出来るが、尤氏長寿養生功を教える私や道場生を騙したり、憎んだりするのはおかど違いである。戦争などの極限状態の時に起きたことを持ち出すその後に民族を一般化して論じるのは理性的ではない。そんなことを言えば、負の連鎖で報復の又報復で、論争は収まらない。だから、私には考えがあって、日本で生まれて日本の教育を受けたならば、文化的には、日本人である。と、血すじでは日本人でなくとも、文化的に日本に共感できる者は全て日本人である。こうして友好の輪を広げて行けば、争いが起こるはずがない。私の日本人論は日本人が日本人を騙したり、危害を加える者は日本人ではない。と言うことだ。日本人はお互いに助けあって、生きる民族であって、その考えは日本人同士だけでは無く、アジア、世界に広がる、広げるべきものである。そうすれば、日本が、世界一住みやすい、平和で幸せな国となる、と思われるのである。日本人に憎しみと怒りを持つ者には私は尤氏長寿養生功を教えることは出来ない。私はサンフランシスコの師母の道場で激しい日本人への偏見と差別を受けた。良くまあ、無事にあの道場で生き抜けたな、と思う位である。時には肉体と肉体の衝突の激しい武術的な戦いで、私が幸運にもタイミング良く投げることが出来た相手は空中を泳ぐように飛んで、椅子の上に落下した。又、ある時には、言葉で言い返して、言い負かしたものだった。理不尽な差別には私は黙ってはいない。こんな経験を持つ私が異なる人種に差別を持つことはない。話は戻るが、尤氏意拳の総師範が在日コリアンで、私や道場生を騙したりしたのは、生い立ちから来る反動が原因で日本の社会で有名で、金持ちになって、社会に見返してやるという心ではなかったのではないか?と思うのにさほど時間はかからなかった。何の理由があったにせよ、在日コリアンに何の敵意と偏見を持たぬ私や尤氏長寿養生功を、騙したり、利用するのは間違った考えである。心と心が、氣と氣が、繋がったものを切ろうとした尤氏意拳の総師範とキッパリ道場の総大将を私が日本人と思わずに全力で排除しようとする私の心は理解が出来よう。これより先、世界に心と心、氣と氣が繋がる者を求めて、私の旅は、日本人、を訪ねる旅はこの先まだまだ続く。

類は友を呼ぶ

上記のことわざは実際に起こることである。尤氏意拳の神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆はお友達の山地 花緒里にニセモノ道場のエネルギーを与えて、山地 花緒里は今、ニセモノ瞑想教授をしている。ニセモノはニセモノを呼び込んで、心の中身は同じであるから、同様な愚行を重ねる。まさに類は友を呼ぶ、である。何が、ホンモノを学んでおきながら、わざわざニセモノになる必要があるのか?ニセモノの心の発露であろう。心が磨かれていないので、自分の心に従った行動をする。ある意味素直ではある。一回の行動を見れば、どんな心で、どんな人物であるか、いっぺんで分かる。一回裏切る者は、その行動パターンを繰り返す。心は正直である。見かけと言葉は信用出来ない。言葉の使い方を熟知した者は土壇場の場面であっても、その場をつくろう言葉を考えて、口にするだろう。騙されてはいけない。利用されるのはもう充分である。自分に瞑想や武術を教える資質があるかどうか、自分の胸に聞いてみるべきだろう。特に教育免許があると言うならば、裏切り教員は教員と言えるのだろうか?資質が問われる問題である。

身体障害者

私は身体障害者4級、介護度2級の国公認の身体障害者手帳を持つ身体障害者である。以前は皆さんもテレビで観たこともある健常者であったが、訓練の激しさで左膝が壊れ、道路で転び、身体障害者となってしまった。今は杖無しでは歩けない。それでも、前述した通り、リハビリと整体で回復の一途を辿り、左脚の筋肉は少しずつ大きくなって氣のチカラがもっと大きくなって来ている。今年の二月にタヒチに行き、その後に九州で講習会を開催して、先月は北海道で講習会を開いた。私の身体の障害に打ち勝ちながらも仕事をして、生活を送っている。それなのに、尤氏意拳の総師範とキッパリ道場の総大将は五体満足で、見栄えも人が羨むほどの良い見栄えで、背丈もそれぞれ百八十センチ、百七十センチ、であるのに私からホンモノの尤氏長寿養生功を習っておきながら、それぞれ、自分のニセモノ道場を開いている。総師範は、その上に私の名前で借金をして一円も返済していない。私より立派な身体をしているのに他に仕事もしないで、総師範の職業でふんぞり返っている。キッパリ道場の大総大将も私より大きい身体と教員免許を持ち、モデルだと言いながら、瞑想のマスターとも言って、ニセモノ師範の瞑想教授を行なっている。これを聞いて何かおかしいと思わないだろうか?私より立派な身体を持ちながら、立派な肩書きを持ちながら、何故それぞれ、武術と瞑想の道場を開いてホンモノであるようなそぶりをしなければならないのであろう?一方、私は今、私の持っているもの、残っている右腕と右脚と私が培った氣のチカラをさらに養い、老後の生活を支えているのである。何故この両名は五体満足で持っている資格も有効に使わずに私の道場でチョットだけ習ってすぐに教え始めるのであろう?心が歪んでいる。身体は健常者でも、心が障害者なのだ。ひとつふたつの資格では満足出来ない、心が不具者である。こう言う私にカッコツケのうまい言葉で反論するだろうが、どんな言葉を用いても、この両名が行なった私の承認無く、充分な資格と修行無く、一派を開く愚行のいい訳を正当化することは出来ない。正当性と正統性のないニセモノ道場は社会では認められない。そんな愚行をする心は一体、どこから来るのであろうか?私がその理由を開示する前に道場を解散して欲しい。私にそこまでさせてしまうのか?理性がまだ残っているのならば、一日も早くニセモノ道場を解散してもらいたい。私の懸命なリハビリと私を無料で施術してもらった整体で、明日もまた、指導員の上級者クラスで、指導員を空中に氣で放り投げるのである。尤氏長寿養生功の正しい継承が続いている。