体技と上虚下実
上虚下実の言葉が出ると私は興奮する。それについては、言いたいことがいくらでもあるからだ。上虚下実になると、人間の活動は飛躍的に高度なものとなる、と私は考えている。いわゆる上虚下実になった体技と言うものは分野を超えて高度なワザとなって、他の競争者を寄せつけないほど強くなって、ワザは完成する。例えば、相撲の横綱は上虚下実となって、相撲の頂点に君臨する。ボクシングのチャンピオン、柔道選手で 強い者は、基本的に上虚下実となっていると私は思うようになった。空勁は別として、相手と接触する競技、スポーツ、武術は下半身のチカラを上手く上半身に伝えて、上半身の腕のチカラを使わずに、脚の筋肉のチカラが腕のチカラとなって相手を制することが可能になるのである。脚の筋力は腕の筋力の数倍はある。そして、その上虚下実はスポーツや武術の分野にとどまらず、他の領域にも影響を与えるのである。例えば、茶道、能楽、さまざまな芸術、日常生活などに応用できる。このように尤氏長寿養生功を長年修練した私は確信するに至ったのである。西洋のスポーツも中国の武術も日本の国技にも共通点があった。人間である限り、身体の使い方は同じである。上手くチカラを使うのにはコツ、極意がある。中国武術の勁は下半身のチカラを上半身に伝えることであった。例えば、ボクシングのアッパーカットは相手の顎を下から突き上げる打撃だが、脚のチカラを手に伝えるように脚に意識を置いて、突き上げると身体の小さなボクサーが身体の大きなボクサーをノックアウトすることも出来るようになる。実際にアメリカの黒人ボクサーにはこの身体の使い方をマスターして、KO率が他のボクサーより抜群に高かったものがかつて、存在した。奴隷の労働で脚腰を鍛えた結果である。昔の相撲取りはただ太って大きかったのではない。田畑での労働で脚腰を鍛えていた者は多かった。相撲柔道に適したことだったろう。もう一つ、和式便所は強靱な下半身を作る。日本人の生活様式が上虚下実を作っていた。日本人が今まで、世界一の長寿であったのも納得できる。太極拳の大家に長寿で元気な人が多いのも上虚下実であるからだ。私の師匠、師母 も元気で長生きをした。上虚下実は人生を楽に生きる極意である。
先人の境地
私が尤氏長寿養生功を修行して、何ものにも私の心が揺るがぬこと、いわゆる境地を目指していたのであったが、内家拳の中でも、太極拳の理想とされる身体と言われることは、上虚下実と言うものである。修行しているうちに私の身体はドンドン変化して行く。下腹はまるで、妊娠中の女性のようにスイカのようにマルマルと大きくなって、脚の筋肉は太く大きく、充実感があり、その反面、上半身には筋肉はほとんどついていない。知らないうちに上虚下実になっていたのであった。太極拳の理想の身体はたった、数年で出来上がっていた。尤氏長寿養生功の訓練は、密教の影響があって、自分が欲しいもの、こうなりたいと思うことが急速に手に入れることができるのである。現実的で、自分の人生に欲しいものを手に入れたくて、この氣功の本質を早くも知って入門して来る者も実際、いたのであった。もちろん、師父も師母も上虚下実であった。超高齢になって、中国からアメリカに新天地を求めて、移住できるそのことは、上虚下実であった身体にその原動力があると私は感じたのである。見える身近にある身体を鍛えると上虚下実になって、その境地、強い心が人生に影響を与える。そして、私の体験から、尤氏長寿養生功は生きている間に理想とされる上虚下実を短期間のうちに作り上げてしまうメソッドである、と確信するようになった。先人の知恵と境地は脈々と修行を通じて受け継がれて行く。だから、良師を求めねばならない。良師はそのまた良師から先人の知恵と境地を受け継いでいる。身体が境地を産み、境地が身体を産む。心と身体はどちらが先に鍛えるのか?と言えば、それは身体を先に充分に鍛える必要がある。そして、私はその先人の知恵と境地を携えて、私は日本を離れ、もうすぐタヒチに移住する。
約束
私は約束をした。亡き私の師と、私の妻の二人に、この尤氏長寿養生功を正しく、尤氏長寿養生功の名を継いで、その名を世界に轟かせて、師母は出来るだけのたくさんな道場生を持ち、経済的に潤い、思い通りの人生を歩んで師母の名を汚すな!と。私は忠実にその約束を果たしている。尤氏長寿養生功の名を汚す者を許さず糾弾して、ニセモノ団体を潰す努力をしている。そして、世界に尤氏長寿養生功を発展させるべく、二年後にはタヒチに移住して道場生を出来るだけ獲得するのである。また、私の妻とも、妻の死の前に枕元で、私のチカラの限り、妻が、命をかけて守ってくれた太田氣功道場を守ってさらに発展させることを誓ったのであった。約束通りに神意拳の太田道場を再生して、今、太田氣功道場として、新生太田道場と蘇り、前述のようにタヒチに移り、尤氏長寿養生功の氣のチカラを世界に問うのである。また、私の妻は病気になって、具合の悪い身体を無理に押して、姜吉隆の不正の実態の調査に来日して、さらに 病気が悪化したのであった。それが原因でほどなく他界した。私も命をかけて守ってくれた妻の気持ちを思う時には、今度は私が命をかけて、太田氣功道場を正しく守らねばならない。この二人との約束は二人が霊となった今でも、その約束の効力は生きている。毎日、朝起きて、二人の顔と言葉を想い浮かべて、その約束を思い出している。約束は果たすべきもので、私は忠実に実行する。師母と妻の死後、霊魂となった二人に私の前途を祝福、加護を切に願いたい。なぜか不思議に私の体調と氣はそのピークを今、迎えているところである。
チャンバラと食レポ
最近の一人の指導員の報告によると、あのニセモノ団体のツッパリキッパリ道場はチャンバラをやり、尤氏意拳は自分の食ったものの食レポをしてそれをホームページに掲載しているのだと言う。あまりのバカバカしさに笑ってしまったのだが、それぞれの専門分野に専門性無く、資格実力が無いので、書くこと、内容がないから、瞑想がチャンバラになり、武術が食レポになっている。よく世間をバカにした行為で、私は安心したのである。こんな小学生中学生の頭でそれぞれの専門性がある、と訴える団体の長がこんなアホウでは、それぞれの団体の崩壊は時間の問題である。と思われたからである。私はもちろん、ドクター尤老師と師母も喜んでおられるだろう。実力と資格のないニセモノが、教えることなど何もないのは当たり前だが、キッパリ道場と尤氏意拳がチャンバラと食レポになっていることが私には恥ずかしく、情けない。でも、本当に恥なのは姜吉隆と山地花緒里であるから、太田氣功道場とは何の関係も無い。恥の無い人間は武術家を名乗り、食レポも出来る。瞑想家を自慢して、チャンバラを平気で出来る。何でも出来る。一旦、立ち上げた団体も閉鎖 解散することも出来るはずである。
自得
尤氏長寿養生功の勁空勁の極意とか秘訣というものを、ある者たちは全て師匠が教えてくれる、与えてくれるものであると思うらしい。そんな簡単なものでは無い。私は師匠の師母からは相手をこういうように投げるとか、このようにする、などの教授を受けたことは一度も無い。師母のやっていることをジッと見て、良く考えて、見よう見まねで道場内の先輩同輩を練習台実験台にして少しづつ出来るようになって、その秘密をパズルを解くようにして、私の場合は海外に出て、現地の武道家やスポーツ選手を相手に勁空勁を試していたのであった。時には私の倍もあろうかと思うような者を相手にした。時には相手の頭が私の鼻を直撃して鼻血が止まらぬ時もあった。そんな風に自分で自得していったのである。私が東京の道場を任せた者は勁空勁のやり方を習いたがり、テレビに出て自分を売りたかったらしい。あまりにせがまれて、テレビ出演の直前に誰でも出来る私が開発した勁空勁をチョット教えたところ、全ての奥義を習った、と言い始めたのであった。早く自分が私にとって代わりたかったようだ。このニセモノ師範は基礎の土台が出来ていないので、自得することなど、出来なかった。自得するには、充分な基礎訓練が必要である。私は何遍も言う通り、二十年で七百二十万回の震脚ジャンプを敢行した。しかも直接師母との一対一の氣の交流を毎日二回の二十年である。どれほどの訓練の積み重ねであったか、私の身体が自分でもハッキリと分かるほどの変化を感じていた。この充分な基礎があって、自得することが可能になるのである。安易に勁空勁の仕方を教えてもらう、という考え、やり方、は一時はハナクソ程度の勁空勁は出来るかもしれないが、その先、高度に熟練したワザには進化を遂げることはないだろう。私の氣が今、深化と進化の両方を遂げているのは私の基礎が充分なことによるものである。七百二十万回の震脚に四万四千四百四十時間の瞑想は私が唯一この氣功で自慢出来るものである。それがあって、海外での武者修行がプラスされて、今の私の技術があるのだ。武術においては、戦い方までは師匠に教わることはない。基礎を作ってもらい、心の在り方を習うことに尽きる。充分な基礎が出来なかった者は充分な勁空勁を出来ない。応用がきかない。これはどんな世界でも同じである。芸術、瞑想、武術、氣功、東洋医学、などは自得で自分の世界を作り、師匠の教えを発展させる、というものである。基礎を作ってもらい、生き方を学ぶが、生きる人生は自分の責任で、師匠が弟子の人生を生きる訳では無い。基礎までが師匠との関係で、その後は自得するのである。
極める
日本人が、最近スポーツの世界では世界一になるケースが多くなっている。日本人の性格上、道を極めることは歴史的に当たり前のことであった。何もスポーツの世界だけにとどまらない。どんなことでも、極めることは日本人の特性と言える。途中で投げ出すことはしない、出来ない。この極めるという心構えにより、日本人が日本人となる。世界一になると言う前に真の日本人となることで、世界一になっているのではないか?と私には思われる。