向上と進化

私は大学の時に少林寺拳法を始めて最終的に本部の専門学校の教官兼国際部長となった後に少林寺拳法を離れて尤氏長寿養生功に入門したのであった。武道に限らず、もっと上手く、深く研究したいと向上心を持つことは当然なことである。武術以外の分野であっても、ある時には決定的に武術の基本となる「氣」に気づき、ワザとチカラの根源の氣を訓練すると向上心に火がついて、さらに訓練すると進化が始まる。向上と進化は、人間であるならば、どんな分野であっても進むべき道である。今までしていたことには訣別を告げて新しい道を歩むことを恐れてはならない。鍼灸も同じである。鍼灸に氣が必要であることはすでに承知しているだろう。向上と進化には氣が必要である。向上と進化を恐れてはいけない。通ってきた道が自分には合っていない、その道が向上と進化のない道と分かった時には訣別を告げることを恐れてはならない。未知の世界に入ることは不安なものである。誰も通って来なかった道を歩むことは怖いものである。虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うことわざがあるが、向上と進化を望むならば、虎穴に入ることを恐れてはいけない。

才能

才能とは何であろうか?生まれつき持っているものであるか?環境によって培うものか?私の経験から考えると、そうではないと思われる。世の中で習うもの全ては、以前習った経験の無いものであるから、どうせ習うならば努力して一流にならねばならない。私の尤氏長寿養生功をマスターした背景には、ドクター尤亡き後にただ一人唯一師母だけがその全貌を知る人であったので、私の全てを捧げて師母から一から習うしか無いと考えて、持っていた家財道具全てを売り払い、住む為に一部屋だけ確保して訓練に備えたのである。毎日二回、一日七時間、二十年プラス十年の三十年間の過酷な訓練に耐えたのであった。それは私の才能であったろう。つまり、継続である。良く、継続は力なり、と言うが、私に言わせれば、継続は才能である。私は尤氏を学ぶに才能があったとは思えない。他の先輩道場生に追いつくには、彼らの何倍もの練習が必要と思い、毎日通い続けたのである。継続して訓練すると、上達する。そして誰にも到達出来ない境地に至る。名人、入神のワザとなる。自分で勝手にできるようになった!とか、ちょっと練習したらできるようになった、とか言うような小賢しい屁理屈は通用しない。私のマネではホンモノの自信は持てない。ホンモノのワザを養うには長く辛い訓練に堪える継続のチカラが必要となる。揺るぎのないユニークでスペシャルな自分を作り、唯一の自分だけの世界を作ることができる。才能をウソと虚偽で代わりにすることは出来ない。

泥に咲く花、岩に咲く花

蓮子の花は真っ黒で汚い泥に根を張り、真っ白な花を咲かせる。イワギキョウは高山植物で固い岩の割れ目の中の少ない養分できれいな紫色の花を咲かせる。人間も同じように、貧しい家に生まれて、恵まれた環境に居なくても、持って生まれた能力と才覚で雄々しく泳ぎ切って生きていく人もいる。そして自分の世界を作り、頂点に立つ。私の人生も恵まれた環境にあった訳ではない、蓮子やイワギキョウのように色鮮やかではないが、やっと自分の思うような色が出て来ているのではないか?と思う時がある。私の人生に於いて成し遂げて来たことは、特技とも言える英語、中国医学鍼灸、そして尤氏長寿養生功である。この尤氏長寿養生功を中心にした世界を構築中である。英語の他にも仏語、中国語、韓国語、ドイツ語も少しずつ勉強中である。特にフランス語は死ぬまでに是非マスターしたい言語である。鍼灸と尤氏長寿養生功を融合した太田式氣功整体を携えて日本を飛び出し、太田式氣功整体が国際的にも通用する医療の一環として認められるように全力を投入している。これは私が完成させたいプロジェクトであって、私が私の情熱を燃やせる私だけの世界なのである。私に賛同する同志仲間を求めて今日も活動する。私の中にある私が咲かせる花の種を蒔いて、色鮮やかに私の花を咲かせたい。

氣に人種国境の壁は無い

私の先輩アメリカ人に私の日本での勁空勁の動画を見せた時に、お前が勁空勁を打てるのは、日本人だけだろう、と理屈に合わないことを言った者がいた。呆れたものの言い方であるが、医学や科学には国境は無い。アメリカの医学や日本の科学とか、フランスの医科学などが無いように、東洋医学もフランスの東洋医学とかイギリスの東洋医学など言うことがあるはずは無い。尤氏長寿養生功の氣が中国だけで、日本人だから、できるとかアメリカの氣と言うこともあるはずは無い。人間であれば、誰にでも医学や科学の恩恵があるように、尤氏の勁空勁にも国境や人種の壁は無いのである。私が日本の整体整骨に尤氏の勁空勁の氣を融合した太田式氣功整体が世界へと伝わる際にもある人種だけに効果があって、この国の人には効果が無いなどという変な理屈は通らない。西洋の文化が行き詰まりを見せて来ている今、医学に於いても病名にこだわって、病いを見て人を見ない医学、目に見えないものを排除して検査の数値重視一辺倒の治療、人間ドックを受診した後にも死亡する患者など、など

科学に於いても、私は科学者だからどんなことも知っていて、計測不能なものはその存在を信じない、こんな医学や科学は通用しない時代になって来ている。太田式氣功整体でも国指定の難病を完治とまでいかずとも、改善できることを証明しているのである。日本を飛び出して海外でも太田式氣功整体が通用することをこの先、私は証明して尤氏長寿養生功の勁空勁の氣が医学や科学と同じく人種国境の壁を越えて万国の万民の病いに苦しむ人を助ける医療技術として確立するのが私の夢、目標なのである。同じことを学んでも、否定的に捉えてしまう考え方では学んだワザの応用や進化など望むべくもないではないか?

師兄のアドバイスとニセモノの業、カルマ

去年師兄史先生の来日の折に私は重大なアドバイスを受けた。基本的な形が男女で使い分けられていたのである。私は翌日すぐに道場生に伝えて間違いを是正した。私は教えられた通りに教えていたのであるが、ニセモノは間違ったことを教えていることになる。ニセモノは哀れで可愛そうなものである。道場に去年まで残っていれば、史先生から指摘されたこの情報を伝えることが出来たが、すでに私から破門されているので、会うことも話すことも無いから私から習った間違いを一生生徒に伝えて行くことになる。そして、この間違いはやり続けると病気になって、最悪死期を早めると言うのだ。ニセモノ自身もそうなるだろう。私がわざと間違いを教えていたのではなく、教えてもらったことを伝えることしか出来なかった。実力も資格も無い者がカネと売名の為に勝手に教え始めた行為、業カルマの結果である。私にはどうしようもない。彼らニセモノの生徒たちが彼らの死後も同じことを繰り返して病氣になったり、死期を早める結果となると思われる。正統性を守って、師兄史先生のような先輩と交流があるから、こんな重大な間違いも指摘される。我々太田氣功道場にはとてもありがたいことであるが、ニセモノ自身とその生徒たちには、実に哀れなものである。カネと売名に執着する本人たちの業カルマがその輪を広げていく。私に今までのことを謝罪して迷惑をかけた私の道場生にも土下座すればこの情報を得ることはできるだろうが、彼らがそんなことをする人間であるとは思えない。何も知らない生徒たちには可愛そうであるけれども、私にはどうすることも出来無い。ニセモノのカネと売名への執着の業カルマにこれから先ずっと付き合って生きていくしかないのである。悪い心が悪い結果を招いて行く。

悪因悪果である。これは真理であるから、貧富貴賤に関係なく、罪を犯せば、その罪の償いをさせられることは当然である。

柔道金メダリストの肘

柔道金メダリスト吉田秀彦選手が、オリンピックの試合で相手に投げられた時に手をついて二人の体重を受けて、肘を損傷したことは覚えているだろう。私はあるテレビの番組で吉田選手の肘を治療したことがある。彼が肘を曲げても肩に指は着かなかった。私が勁空勁で投げ飛ばして充分に氣を繋いだ後に肘を曲げてもらうと、肩に指が着くようになっていた。このテレビの番組は全国放送であったから見たことがある人もいるかも知れない。実はこれが太田式氣功整体の成果であった。私のアメリカでの中国医学鍼灸のライセンスは日本で使えない。使えば医師法違反となる。回りには明治大学の柔道部の猛者たちが取り囲んでいる。吉田秀彦選手を投げ飛ばしたりしたら、生きて帰れるかな?と少し不安があったのだが、彼が氣功の成果に驚いて不思議がって興味を持ったので、友好的なやり取りをして無事生還を果たしたのであった。

戦争、経済、瞑想

戦争、経済の危機、は周期的に我々に襲いかかる。アメリカでは、景気が悪くなると景気を良くする為に戦争を起こすことが囁かれる。十年に一度、戦争の周期があると言うのだ。日本も大戦後すぐに朝鮮動乱とベトナム戦争で驚異的な経済復興を成し遂げたのである。日本がバブルでみんなが浮かれて、街中を一万円札が飛び交っている時には、私は站椿功で大粒の汗をかき、座禅で心の静寂を保っていた。心身を鍛えていたのであった。現在の世界の情勢は混乱と不確実性と経済的低迷に満ち溢れている。こんな時代こそ、我々の心は静寂に身体を強く、心身共に健やかにすることが大事なことである。外界の出来事に左右されない、自分自身をブレさせない。身体は強く、心は静かに判断を間違えない。健康と長寿に注意を向けて、站椿功と座禅に精を出して太田氣功道場は前進する、道を歩んで行く。