站椿功は根性養成ではない

今週のお題「カラオケの十八番」站椿の話を既にしたのでもう少し掘り下げて見たい。以前武術関係者が書いていたものを読んで驚いたことがある。站椿は根性で立つ。根性を養う為にやる。と言うことであった。私が習った尤氏長寿養生功はそんな一次元的な根性論ではなかった。氣を養成する手段として中国の武術家の先人がついに辿りついた究極の修行法なのである。私の先輩で中国人武術家がいて、自分で一派を立てようとしてある日会合を開き賛同者を集めようとしていたので、どんなだろうと私も出席していた。到着するなり、今日は站椿を六時間もやっていた。と自慢話を始めた。中国人にはよくあるタイプで、またやってるなあと思ったものだった。ドクター尤はこんな時は、バーカ、站椿は六時間もやるものではない、せいぜい一時間で脳に最大の良い影響を与える時間と言うものがあって、それを教えたではないか。誰が六時間も立てといったのか?ともしドクター尤がその場にいらっしゃったなら、そのように言ったに違いない。と私は思う。ドクター尤がサンフランシスコに来てこの長寿養生功を教え始めた時は道場生の誰も何が何だか分からなかったと私は聞いている。この中国人武術家は集まってきた者を自分が一番だと言いたくて印象づけようとした行為だったのだ。そんな者たちは中国人に限らず、日本にもいるものだ。私のやっていることを真似て、同じ似たような事をホームページに掲載する。チカラが無いから氣も無いから、焦って、見よう見真似で一生懸命だ。私が見れば真のチカラと氣を使っていない事は一目瞭然だ。見るからに卑しく、あさましい。この先輩中国人武術家にも同じ嫌悪感を覚えたものだった。恥ずかしくは無いのだろうか?恥や外聞は武術家が一番に氣にするものではなかったか?情け無いことと思う。站椿に戻るが、私の経験では決して根性を養うものではなく、氣を養うもので、どのようにして一時間もの間立ち続けることができるのか?秘訣と秘密がある。自分の脳の状態を変えてしまうのだ。前にも言ったが苦しい姿勢も変性意識状態になると何とも無くなってしまう。私の修行のピーク時は膝を曲げて大腿四頭筋は床と平行になって、一時間経っても平気であった。自慢しているのではない。経験したことを伝えているのだ。そのような修行があって、今日本に戻り、教えていることができるのである。今の私が教えている道場生は私が経験したことと同じことをまた経験してその段階を上げていくのである。継承とはそういうことではないか?自慢して有りもしないことを作り上げて、自分を神格化して人集めをして一儲けなど企めば詐欺となる。人のやることを真似て二番煎じ、三番煎じをすれば、猿まね武術家と蔑まれる事になる。心すべきことと思う。ウソ偽りのない人生を歩めば楽しく、幸せだ。自慢してサル真似しては幸せになれる筈は無い。不良のエネルギーだから人生も不良となる。カネも集まらない。不満ばかりの人生となる。