私の思い出の人生哲学

今でも忘れられない修行の思い出がある。そしてその思い出は私のそれからの人生哲学となった。当時、少林寺拳法を辞めて、何か良い私に意味のある武術を探していた頃であった。尤氏長寿養生功の師母のことを聞きつけた私は、スグに師母に入門の許可を願い出たのであった。ぶっきらぼうで、無愛想な師母は私が、日本人であることを嫌った。嫌味な中国人女性の通訳が、まるで自分が師母のように、当分の間は、お前は監察監督下に置く。合格したら、入門を認めようとまるでドラマに出てくるセリフである。仕方無く、站椿が始まる。一切の何の説明も無く、低い姿勢で立て、絶対に動くな、と言って師母はその場を離れる。自分の体重を脚で支えるのだが、しばらく経つと首肩はガチガチになって、膝は体重の重みでガクガクして一時間が過ぎていた。殺された。師母が戻り、手をポンポンと打つ。站椿が終了した。体中、カチカチに強張って歩くことも出来ない。仰向けに倒れて痛くなった個所をさする。何だこれは?と考える。分かるはずもない。しかし、妙に、何か懐かしいような、ずっと前にやったような氣がして、よし、この武術氣功をやってみようと積極的な気持ちが出てきて、先輩道場生が宙を舞う光景を見た頃には、人間は、人生は非常にシンプルなことを難しく考えてより複雑にしている。簡単なことだ。好きなことをする。ただそれだけだと、妙に哲学的な気持ちになった。そして今でもその気持ち考えは変わっていない。私が武術を通して見てきたさまざまな人物で不幸せな者は好きでもないことをして不幸になっている。自分が関わる武術も本当に好きでやっているとは限らない。嫌いなことをすることは不幸なことである。私が一時期教えた男もこの氣功が好きであったとは思えない。好きであったのはこの氣功ではなく、カネであったのだ。好きであれば、この氣功の名を汚すことなどは出来ないはずだ。カネが好きなら、金融機関やカネを稼げる職業を選ぶべきなのだ。シンプルに人生を生きる方法には、好きと嫌い、するとしないの四っつしかない。好きなものを選び、好きなことをする。嫌いなことはしない。これは幸せになる近道である。好きと言っても、ただ単に好きであってはいけない。徹底的に好きになることである。恋愛と同じだ。そして浮気はしない。ずっと継続的に愛することだ。そこに楽しみが生まれて、生き甲斐になる。生き甲斐を人生の中で持つことは幸せなことだ。私はある事例を知っている。年老いて、杖をついたヨレヨレの老武術家は道場で弟子に稽古をつける時は、道場に入る前まで、杖をついてもカックンカックンと道場まで辿りつけないのでは?と思ったら、道場に一礼すると背すじはピンと伸びて足腰もしっかりと杖も無く、スタスタ歩って道場の中央にまで行ってしまう。この老人には武術が生き甲斐だったのである。私の師母も百歳を超えた時もそうであった。好きで愛するものがあれば、自分の生き甲斐になる。そしてそれは幸せな人生になる源になるとこの氣功を始めた時も今でも、思っているのである。死ぬまで同じことを思うだろう。