言葉はいらない

私が師母を亡くして、しばらく経つけども最近になって、ますますある考えが強くなった。私にとって、この氣功武術はこの世に存在するあらゆる武術の最高峰に位置する崇高なものである。私がそんな気持ちになった訳は、私の修行が、何の説明もなく、ただ言われた見せられたワザと型をしろ、と云う昔ながらの体験主義のつべこべ言わずに訓練だけしろ、というものであったからである。とはいえ、何かを伝えるに言葉は必要である。師母が英語は得意でなく、超高齢者であったせいでもあろう。しかし、これは武術である。しかも、ただの武術ではない。百五十年ほど前の氣の武術であって、さまざまな口伝がある。一人一人に個別的に手渡すワザなのである。内容は他の別派武術に知られてはならないものばかりである。さらに、この氣功武術を複雑にしているのは瞑想の部分はチベット密教である。武術も密教も体験でしか会得出来ない秘密なのである。そんな修行法には言葉はいらない。自分の体験が全てである。私が習った時と同じようには、教えてはいないが、導入の部分は説明はどうしてもいる。しかしその後は、体験してもらうしかない。体験と言葉は相反することに思われるが、実は、体験は言葉を包んでしまう。私はある体験をタヒチでした後は訓練の意味の一つ一つが全て理解出来たのである。私の同輩、先輩道場生は、相変わらず、盲目の練功を繰り返している。そんな者達を尻目に私は頭一つも五つも抜きん出てしまった。その後は何の説明も要らずにただ黙々と師母の教えることに從うばかりであった。師母の私を見つめる目を見るだけで師母と話しをしているようである。無言の会話をしていたのである。このとても貴重な体験を私はしたので、

言葉はいらないと言っているのである。

言葉はいらない。ただ体験あるのみである。言葉はいらない其の二はすぐ掲載する。