チベット密教の瞑想

最近は瞑想ブームである。尤氏長寿養生功の站椿功と座禅は一対で、尤氏長寿養生功の根幹を成す重要な基礎訓練であって、入門時から私の私たる、私を成すもので、今も毎日続けている。氣を電気と例えるなら、瞑想は発電機である。氣を使う時はいつ来るかわからない。二十四時間三百六十五日最大の氣を発することができるように準備して溜めておくのである。何も武術、護身の為だけではない。生まれて生きて何を成して死んで行くのか?

その答えが瞑想で掴める。ドクター尤老師がチベット密教の瞑想を意拳のシステムに取り入れてから、よりスピリチャルに、より仏教的な健康養生功として生まれ変わったのである。どちらが強い、弱いの競争から真の強さ、真の勝利者を求めて目指す医療的氣功となったのだ。この密教の瞑想は毒にもクスリにもなる。瞑想を指導する者が未熟な場合、教わる者が狂うことがある。東京大塚で瞑想を教わった者に氣が狂った者が出た。指導者が未熟者であった。己れの瞑想の時間が足りずにジャンプをさせて、瞑想の指導に失敗したのである。充分に己れの氣が降りていないのに、焦って、自分の強さを誇示する目的で教えてしまうその浅はかな行為は人を狂わす。毒になったケースだ。一方私の患者に半身不随の人がいて、医者も見放した患者の母親が息子に教えた瞑想を私にも教えて欲しいと言って、私が瞑想をその場で教えたところ、翌週二人で私の医院に来て、母親である老婆がニコニコして、先生、教えてもらった瞑想を一週間毎日続けたら、持病の喘息がすっかり治りました!と言うのである。私の方がビックリしてしまった。クスリになった例である。このように片や自己の誇示をすると毒になり、癒し再生の為であれば、クスリになる。心のエネルギーが黒いと悪い結果となりエネルギーが白くピュアであると良い結果となるのである。心に慢心や邪念があって瞑想を教えると氣が触れて当然だ。大塚で教えた者が浅草で瞑想を教えていると私は聞いたが、慢心や邪念は目に見えない。浅草で習う者達は、充分に気をつけて、元大塚の指導者の邪気を受けぬよう気をつけないといけない。貴重な人生の時間を無駄にしてはならぬ。