一事が万事

人の人格が賤しい者は何をやらせても、どんな分野で行動しても、例え、武術であっても、瞑想であっても、学業であっても、何をしても、それは賤しいものになって仕舞う。それは一事が万事という言葉で締めくくられて仕舞う。先回のブログ記事に書いて置いたが、貧富貴賤、誇り、恥等の人間の人生の基本的哲学を誤って選択すると賤しい人生になると言った。煎じ詰めれば、それは心ということになる。心が賤しい者は、何をしても賤しいのである。ひとつが賤しいことをする者は二つめでも賤しいことをしてしまう。10個めも100個めも同じことである。一事が万事ということになる。我が尤氏意拳の宗家創始総師範神田真澄こと神田吉隆、別名カネだ吉隆の事を言っている。当然、賤しい人生となる。賤しい人間であるからだ。新神道大本教では、元の本の意念から、想念から清くないと清いことにはならないと説いている。心から清くなって清くなる。心が賤しい者が打ち立てた武術は賤しい武術とならないか?心が賤しい者が教える瞑想は賤しい瞑想と言えないか?私の経験では賤しい武術と賤しい瞑想は習ったことはない。そう言えば、尤氏意拳のホームページにはいつでも女性の写真を掲載していることが何故だろうと感じていた。賤しい心はホームページまで賤しく作ってしまうということか?賤しく卑しい

尤氏意拳は一事が万事賤しく卑しいと言える。

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