氣と傲慢

氣を訓練する者の中には傲慢な者がいる。というよりたくさんいるようである。何故なのか考えてみた。特に我々尤氏長寿養生功のように相手をコントロールする、飛ばす団体に多いようである。以前私が教えた大阪で集まった呼吸法の人間達には私と競争する者がいて、口の減らない者が多かった。もちろん、訓練の方法は全く違うものであるから、彼らの思うようにはならない。呼吸法ではただ身体をリラックスさせて緩めて、氣を上に上げるシステムだから、私の発勁の後は身体が上に上げられて、足が床についていない状態で飛んでいく。いつ窓を破って外に出るのかいつも心配するほどであった。もう一つ傲慢な者はあの尤氏意拳の宗家は心が幼稚で、私が日本を留守にして、他に教える者も居ない、己れ一人が頂点に立っている、チョット教えた勁空勁を意拳の最高究極のワザまで習ったと思って、傲慢にもそう公言していたものであった。私が創作した誰もが出来る初歩の技術である。傲慢の形はさまざまだがその出どころはその者たちの心である。少しチカラがついて傲慢になる者はその者たちの目標ゴールが浅いのである。見えないチカラで相手が飛ぶ、コントロール出来る、などの氣が蓄えられただけで自分を特殊な人間に思えてしまう。私にして見れば、鼻クソのようなものであるが本人には鼻クソではないらしい。師母との訓練がどのような、どれほどの激しいものであったか、知らないからだ。上には上がある。小さな井戸の中でしか練習出来ないので、傲慢になって当然だが、かと言って、どんな傲慢も許されることではない。小さくチカラがつこうが大きくつこうが、傲慢にならずに

明日の練習に備えるのである。死ぬまで修行である。死ぬ直前になったら傲慢に俺はこんなに練習したと自慢して良いと私は思う。