氣功の極意 意念淡白

前回の補足をしてみたい。意念淡白との言葉は聞いたことがない人は多いと思う。意念とはこうなって欲しいという願望である。人生の中で、自分はこうなりたい、こういうことをしてみたい。などの普通一般の希望願望である。しかし、人生の中で、希望願望は自分の望むようにはならないのが現実である。そんな時ならあなたはどうするか?自分の能力や分を超えて望むものであればどうするか。どんな人間でも、最初は努力して希望願望を達成しようとしないか?そして努力が能力以上に上回ると自分の夢は達成されるのではないか?しかし、努力が夢の達成に足りぬ場合は達成することはない。では自分の能力に見合った夢希望願望ならば、能力以上の努力もせずに達成するであろう。この未来の未だ来ぬことに大きな執着心を持って、見苦しく、動き回って、他人に迷惑をかけてまでバタバタするような行為は宇宙の真理、秩序に反するのである。大学受験で自分の能力を見返ることなく、やみくもに自分の望む大学に入りたいと思っても壁が高ければ、筋力をつけて越えようとせぬ限り、いくら神に祈っても壁は超えられない。大学受験に失敗する。自分の責任なのに他人のせいにするであろうか?無理なものは無理として諦めるのが普通一般である。執着心を持たずに次の目標を見つけて邁進しないだろうか?しかし、自分の能力以上に努力が勝る場合もある。大学受験に限らない。自分の努力を惜しまず、他人が百回するところ、自分は千回して他人の上を行く。他人が千回すれば、一万回、一万なら、十万回、十万なら、百万回である。私は実に十年で

三百六十万回のジャンピングを敢行したのである。そして、そのことを自慢すること無く、これで儲けようとか、テレビに出てやろうとかいう野心、願望も無かった。余りの面白さとこの氣功の人を変革するチカラに驚いて、このエネルギーを応用したら、どうなるか、自分のチカラがどこまで通用するか試して見たいとの願望であった。そこまではハッキリ覚えているが、後は意念淡白で、すっかり忘れてしまった。勝手にテレビ局が動き始めて日本のテレビ局に呼ばれて番組に出演したのである。強い希望願望の後は執着心を淡白にする。密教で生きているうちに願望成就の為に祈祷などするが、それだけでは成就はあり得ない。自分の強大な努力とその後のすっかり忘れて、自分の生活、修行に戻る。変な野心や野望は持たない。簡単に言うと、心を綺麗にピュアにする。こんな人に宇宙は密教はチカラを貸してくれる。そんな時はあれよあれよとものごとがうまく行ってくれる。自分の意識以外のところで動いている。不思議な状況だ。そんなことを私は何回も経験している。これを意念淡白という。あなたは自分の能力以上の努力をしたことがあるか?そしてその後はすっかり忘れてしまったか?そのプロセスを踏めば、夢希望願望は成就していたはずだ。私の一時期の弟子(私が認めた事は無い。自称である。)神田真澄ことカネだ吉隆は己れの夢希望願望を嘘と虚偽で達成しようと努力したが、嘘と虚偽は劣勢の負のエネルギーであるから、宇宙の真理秩序に反するので、夢希望願望は成就するはずはない。むしろ、被害者と感じる道場生に負の感情のエネルギーを受けてしまうから、その氣は重く強くまとわりついてろくなことが起きない。いろいろと自分の意に反してことが動いて行く。こんな人生は怖ろしい。氣功の大先生のように自称しているが、一番最初の大切な氣功の極意をすっかり忘れてしまった。この意念淡白が尤氏意拳に伝わることはない。