情と契約

四十三年間、アメリカに住んで気づいたことであるが、決定的な日本人との違いをいつも見せつけられた。対人、対人間関係に於いて、求めらることは、法的な契約である。一方、日本では「情」が対人、対人間関係のあいだに存在することではないだろうか?アメリカに住んで、いつもある種の寂しさを覚えた。何かドライで、殺伐とした雰囲気が漂う。日本のしがらみを嫌ってアメリカに来たはずなのに人のおせっかいと日本人の対人の近い距離感が妙に懐かしい。アメリカに集まる人間はあらゆる国々からで、ひとつの国にまとめる為に法的な縛りや基本のルールがどうしても必要になるのである。契約が必要になる。そこに曖昧な情の介在は要らない。親子、夫婦でも契約が基本である。社会に出たら契約に反したら、罰せられる。日本人も例外ではない。長くアメリカに住めば、思考はアメリカンになる。長く住まなくても、アメリカンになってしまう日本人は多い。私はアメリカの土地は合っていなかったかも知れない。日本に帰って来て、心の底から日本の文化や社会と生活、日本語、漢字をエンジョイしている。漢字は初歩から、もう一度勉強し直して見たいと思っている。大学時代にアメリカから留学していた大学院の学生がある日、習った漢字をノートに書いて、読めますか?と聞いて来たが、どう読んだら良いかわからない。日本人でも読めない漢字を習っているらしい。これだけの日本語の教育を受けた者の日本語はどれだけのものになっているのであろう。日本人の情も理解したと思うがアメリカに戻って対人の基本が情から契約になるとどのように感じているのか、私には大変興味深い

   Subject    である。最近の日本のニュースの事件や出来事には情が少なくなって、契約が全てであるような、法律に引っかからなければ何をしてもいいと言うような風潮になっている。食事だけでなく、こんな事件や出来事まで欧米化が進んでいるのではないか?あの賤しい尤氏意拳の神田真澄ことカネだ吉隆も法律の網の目をくぐり抜けて、掠め取ったカネの返済を拒んで、いけシャーシャーと毎日のうまい酒と食事にうつつをぬかしているらしい。私は世界に誇る日本人の生活の基本である情がなくなっている状況を嘆いている。カネだ吉隆は日本人の情を利用して多額のお金を集めてトンズラ状態だ。情のある道場生が糾弾しないならば、カネだ吉隆を道場の責任者に任命した私はその任命責任を果たさねばならない。日本の傾向として、法律を基本の社会に転換せざるを得ないほど、欧米化が進んでいるのであるが、それを逆手に取って、法律の網の目をかいくぐり、カネを集めている輩が増えている。オレオレ詐欺は一生かけて貯めた高齢者のお金を奪い取っている。私はこんな非日本人を許して置く訳にはいかない。法的に逃れる言葉を使ってカネを掠め取った者は、特に私の家族同様の道場生から掠め取った者を絶対に許さない。残りの人生をかけて、追及する。日本の情は契約のアメリカから見れば、甘いと思われるかもしれないが、これは日本人が長い年月をかけて培って来た心の一部で日本人にとって、心地良く生きる精神文化なのである。それを逆手にとって、利用する者はアメリカで契約を基本に生活して契約によって罰せられて、初めて、日本の情をありがたく思うことになる。