人生其の二 恥づべき教師
もっと付け加えることがある。
極貧や無学の家に生まれたことは
私の責任ではない。当時教師といえば、
知識人、良識ある職業として、誰もが
尊敬し、少々自分の生徒を叩いても、咎められる
先生などいなかった。しかし、高度成長期に日本が突入して、時代が変わって来ると、教師も様変わりする。拝金教の先生も現れる。先生が聖職などと誰が
言ったか、という態度で、私のような極貧の子供
はとことんいじめられ、殴られる。
殴られない日は、逆に調子が悪い。
中学校に入ってすぐにアルバイトを始めた。夏休みは掻き入れどきだ。冬休みも
忙しい。友人達は塾通いだが、私は
働いた。成績表を親に持って行っても、パッと見て投げ捨てるように突っ返される。成績がオール五でも何にも言わない。こっちも諦めて、成績表は見せなくなった。そんなうちに父親は酒の飲み過ぎで死んでしまう。高校入学間も無く、父親の友人で医師だった人が、親切にも
家庭教師の仕事を紹介してくれる。
お陰で、高校時代は学用品その他は
自分で賄うことは出来たのである。
英語は好きだったので塾にも通うことに
なった。このお医者さんは私が肺結核
に罹った時は自宅の病院に入院させて
くれたのだった。教育の重要性を理解して、彼の母校に私が入学したことを
喜んでくれたのである。高校では、
担任の教師全ては兄のように、時に
友人のように人間的な付き合いがあって、校長もマムシと言われた名物
校長で、奥様が手術して輸血の話が出て、たまたま私の血液型が一致したので、私が手を上げた。ビックリするほどの回復力で手術は成功した。若い血は
栄養たっぷりだったらしい。この名物校長の毎日の訓話はサムライのように
精神訓話であった。私の青年になって行く心の糧になったのだ。曲がった事はしない、大和魂とは、そんな日本人としての心構えだった。小中学校の先生は、
いやらしく意地の悪い心で、私が何か仕出かすと、待ってましたと言わんばかりに、殴りつけた。親が何も言って来ないのを知って
いるらしい。中三の時には、担任を殴ってやろうかと思ったが高校入試を控えていたので思い止まった。ここで言いたいことは親が無学貧困であることは、生まれてくる子供には関係ない。そんなに
生徒の貧乏が気になるのならば、親を呼び出して親を殴れば良い。こんなバカ教師は死んでいなくなっているので、
こんな説教はしても無駄ではあるが、、、。いつか仙台に戻るチャンスがあれば、私の学んだ高校を訪れてみたい。きっと万感の思いが込み上げて
来るであろう。