与えよ、さらば、与えられん

私の幸せを分けてあげたいと私は言った。私と聖人、例えばマザーテレサと同じ次元で見返りを求めること無く、神の

愛をインドの極貧層階級に捧げたものと同じことを言っているのではない。私の持っているもの、知っているもの、習ったものを共有して

分けることを言っている。これならば、

普段の私の生活を乱すこと無く、無理なく出来ることである。波乱万丈の私の

半生を生き抜いて、今私の幸せの絶頂の何分の一でも与えることが出来る。私の経験で、

私は知っているのだ。与えると与えられることを!与えてその何倍も与え返した人もいた。しかし、与えられようとして

与えたのではない。見返りを求めない、

下心がない行為が思いがけない結果を

生む。情である。人は感じるのである。

見返りのない行為に対して、感謝する。

それが人間性を持つ人の本質本性なのだ。

私は気づいた。これが人間社会の理想的な姿であると。もちろん、そういかない時もある。そんな時はその行為は

人は見ていなくても、神は、天は、

必ず見ている。そんな損したと思われる行為は必ずどこかで報われる。

報われないにしても、自分の心は、

気持ちは清々しい。何か良いことをした、

させていただいた、と譲る気持ち態度は

心に余裕が出来て、次なる自分のステージにその余裕が役に立つ。どっちにしても、損はない。金銭的な出費も意外に

何かの回り合わせでなんとかなる。

無論、騙されたり、詐欺にあうような時は、別の話となるが、、、。

いずれにしても、与えると与えられるのは間違いのない人生の中の方程式

であると云うのが私の経験から導き出した哲学でこの言葉はキリスト教の聖書の中にも出てくるのは誰もが知ってる

ことではある。