武は絶対平和である

武術における武の意味は戈を止めると

云うことである。戈を止めると云う意味は戦争、戦いを止めると云う意味で、

争いを未然に防ぐと云うことになる。

私自身は、この哲学は実践出来なかった。日本でも権威を振り回して弱者を圧迫する者は我慢ならずに怒りに任せて

殴った者は何人か居た。アメリカでも

拳法の訓練中に真っ裸でフリチンで

殴り込みをかけて練習の邪魔をする

ちょっと気の狂った男には服を着てすぐ出るよう警告したがしつこくかかって来いと叫ぶので、また私の額の静脈が

太くなって、それじゃあ、と言って

相手になって、一番目につく股間にぶら下げている二つのボールを蹴り飛ばすと

床に転がり、それでも立って掴もうと手を出して来るので、その手を思いっきり捻って投げると空中に浮いて床に叩きつけられ、のびている。唾を吐いている。

手を離さず、顔の真ん中を叩くと鼻血も出たので警察沙汰になると面倒だ。

あっちも戦意が喪失しておとなしくなったので、すぐ出ないと警察を呼ぶと警告して帰らせた。自分なりには正当防衛のつもりであったが、相手を殴るのは良くない。反省をしている。武に携わる者の最終目標は突き蹴りを止めることである。練習もしないことである。

尤氏長寿養生功では突き蹴りを練習しない。鍛錬するものは氣のみである。

いわゆる戦いの訓練はしない。

絶対平和となる。今は戦闘の道具には使わない。それでもそのパワーは凄まじい。ピストル拳銃も持っていれば使ってみたくなる。相手を殺すには拳銃一丁弾丸一発で事足りる。相手を制することに誰も一生訓練したくない。しかし、一生訓練すると精神と肉体を鍛えることが出来る。

健康で長生きする。これはもう絶対

平和である。師母も絶対平和の人であった。