体験

経験と体験は少し違うようである。経験が客観的なものに対して体験はもっと

個人的主観的な経験と言うことになろうか。あの鼻くそ尤氏意拳の神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆の体験は、私が手伝って、取った日本拳法の優勝しかない。

姜吉隆が浪人生の時に私に出会い、私には

道場生が三百人も五百人もいたのを見て

これは儲かるとその金銭的な面だけ推し量って、くっ付いていれば、あなたは私の父親ですと言えば、良い目を見られると思ったのだ。でも辛い訓練はごめんだ。カネとモノと良い目だけ欲しい。

私が言うことなすことを利用して形ばかりの道場運営をすればなんとか私の名前と権威の影に隠れて、道場生に服従を強いて、私には適当な報告をして、アメリカにやって来ては自分の休養をする。

こんな人間がたった二回の師母との面会を数年間の過酷な訓練の時間とすり替えるのは朝メシ前であったろう。このオトコには

体験がない。あの厳しい師母との訓練の時間、体験がないから私から聞いた話をデフォルメして嘘をつくしか手だてはない。私のアメリカの家の玄関で、正座して一晩中私の入門許可が出るまで待っていたと言う時代遅れで時代錯誤のマンガに出てくるような嘘を道場生についていた。役者やのう、である。頭が悪いのか

三流マンガの読みすぎなのか 私には

分からない。どっちにしても、体験がないから嘘をつくしかない。私の体験に追いつこうとすれば、嘘をついてそのギャップを埋めるしかない。小さな嘘は

だんだん大きくなる。私に破門されると

自分の独立を宣言しなければならない。

それにも嘘の上に嘘を重ねばならない。

真っ赤な嘘となる。もうこうなったら、

神様の名前を出さなければ、自分の権威を保てない。神様もいい迷惑だろう。

私には体験が全てである。体験以外、

話はしないことにしている。だから、

話す内容には嘘がない。当たり前なことである。相手に矛盾があれば、私の体験を基にその非を正す。もちろん、私が

全部すべてにおいて正しいとは言ってない。私が誤っていれば謝る気持ちはいつでもある。私の人生の大半は武術武道で過ごして、自分の精神的支柱も武の哲学であったから、体験していない者があたかも

体験したように振る舞うことに敏感で

許せないのである。

姜吉隆よ、今からでも遅くはない。

体験せよ!体験こそが全てである。

もっとも、お前には武術の体験ではない。まともに働いて、奪ったカネと私の名前を使って作った借金の返済の体験である。