禅の教え

日曜日の朝五時くらいからであろうか、いつもこころの時代とかいって、テレビで宗教の対談をやっている。昨日の朝は禅僧と

脳外科医との対談で脳外科医の脳の中での意識の説明に対して禅僧がコメントする形である。その中で、印象に残ったことは、座禅とは、するものではなく、

身体が出来上がって行く末に座禅が

出来上がり、形成されるものであるという禅僧の言葉であった。我々の尤氏

長寿養生功の瞑想、技術、意識、など

この氣功の全てのものは、身体が出来上がって、初めて、外に向けて現れるものである。決して本を読んで学べることではない。個人と個人の一対一の修練の

末に体得出来ることなのである。

尤氏長寿養生功では宗教を目指すものではないが、瞑想主体である以上、宗教との関わりがどうしても出て来る。

禅の目指すことは究極のところ、

上虚下実であると言う。私の修行の経験から導き出された究極の身体も上虚下実であった。アプローチは違うが、同じことを目指している。禅は仏教であるから

執着心に打ち勝つ心を養って悟りを目指す。氣功もある意味で執着心を取り除き、健康で長生きする身体と人生を目指す。執着心は心に硬い殻を作るのである。

瞑想すると脳の中の回路の渦巻きが

一旦ストップして負のスパイラルが

停止するのだと脳外科医は言う。その対談の後、一緒に二人で瞑想する。驚いたことに、毛布のような布を頭からスッポリ被って瞑想していた。私もサンフランシスコで修行していた時も、座禅の時は

頭からスッポリ毛布を被っていたのである。そしてもうひとつ印象に残った言葉があった。人間が一生の間に何を成そうとするのかと言うことには、

人間は人に愛されたい。認められたい、

生きて来たことの証明を残したいと

いうことであった。そして、禅では

harmonized self 、 すなわち、整えられた

自分、真の自分、調御された自分を

作ると言っていた。