師母の対応

尤氏長寿養生功の最大の道場生の目的は通氣になることであった。武術で言えば黒帯とでも言おうか。しかし、この通氣は単なる入り口で、そこからが修行の始まりである。通氣だけで終わりではない。私が通氣になったのは1992年であるから、二十五年が過ぎていることになる。師母は通氣になる前の道場生には

そっけないほど、見向きもしなかった。

私にも同じ態度で三年の間は一言の

会話も無かった。しかし、私が通氣になってからは、態度が一変して、私を勿体無いほど同等に扱うようになった。

通氣になることは氣が丹田に降りて、

丹田に降りた氣は上がって来なくなる、ということである。それだけではない。

通氣になる為には、相当な基礎訓練とジャンプを繰り返さなくてはならない。

私は着替えのシャツを五枚もバッグの中に入れて、瞑想の為の毛布も一緒にバッグに入れていた。修行の為の必需品であった。ゲップ、おなら、汗などの排出物を出せるだけ出して、身体を浄化することが目的である。今になって、私は

何故通氣になっていない人間には話しもせずに会話もしなかった事を理解した。

完全に浄化されている自分の浄化された氣を汚さない為である。仏教では修行を積んで大阿闍梨の称号を持つ修行僧がいるが、そんな荒行を積んだお坊さんが

一般人と付き合うことはないだろう。

会話もしないはずである。そんなものだろうと感じている。何も私が大阿闍梨であるとは言ってはいない。大阿闍梨の山を歩くスピードは人間技ではない、という。修行の途中で死の危険性もあるほどの山中での修行なのだ。私は大阿闍梨の修行経験はないが、瞑想とジャンプの繰り返しの中でひょっとして私は死んでしまうのではないか?と思ったことがある。それほどの過酷な修練であった。

他の同輩や先輩は通氣になってすぐ辞めてしまう者もいたが、私は日本から妻と共に一緒にアメリカに戻り、修練を続けた。しかも、以前と同じく一日二回、

三百六十五日である。当時私は五十歳の

年齢であったが、不思議と疲労や倦怠感は無かった。毎日が楽しく、真剣で、

妻と一緒に師母に付き添うように毎日

ジャンプして瞑想を続けた。ジャンプと瞑想は一日の日課となって、我々の生活には無くてはならない生き甲斐となった。師母はとても喜び、私は道場の

筆頭格となった。妻も痩せた身体は

一回りもふた回りも大きくなっていた。

この時師母は我々には特別な信頼を寄せていた。仲間、同士となっていたのであった。そんな中歳老いた師母は優に百歳を超えて老衰の為、入院下血が続き、

他界された。葬儀には近在の道場生が集まり、厳かに行われた。私は恥ずかしいほど涙が流れて止まらない。私が任命した人物には師母の死を伝えはしなかった。どんなことも自分の都合で自分を格上げに利用するオトコであるので、

妻と相談して伝え無かった。信用出来る人間には思えなかった。伝えても、身銭を切って駆けつけるオトコでもない。私の家には泊められない関係になっていたのであった。日本では道場生にカネの無心で道場生を苦しめて、私の名を語って

返済意思のない借金を重ねていたのであったからである。