私の弟子は宝もの

中国武術に於いては、弟子になることは難しい。私が師母の弟子であったとは思えないが私には今、私にとって、宝ものと思われる弟子が日本とタヒチとアメリカにいる。私を公私にわたり助けてくれるからである。すでにタヒチには二人いて、彼らはもう私の意を汲んでタヒチの全島に尤氏長寿養生功を拡めることを

計画してくれている。一人は中国系タヒチアンで、新聞記者をしているので、広報担当をしてもらっている。もう一人は現地のポリネシア人で、タヒチ社会の

重鎮に知り合いがいて繋がりを保ち、Pavlic relation を任せている。人材適所で個人の経験と能力を発揮してくれている。大変ありがたいことであり、彼らがいなければ、先回のデモンストレーションと治療、市長さんとの折衝もありえなかった。日本にも今のところ、二人いて、この二人がいなければ、日本での氣功教授は不可能である。氣功学校を卒業した者もいる。地方に散らばり、これより千葉、大阪、山形、北海道でも分校や支部タヒチと同時進行で拡大する。

私が私の弟子と思う道場生はまさに私の宝ものなのだ。私を裏切って、のっとりを企んだ者は自分で自分を私の唯一の弟子と言ってはいたが、私はこの者を弟子と思ったことなどはない。師匠とカネオンナクルマを天秤にかけてカネオンナクルマを選ぶクズのような人間は弟子にはなれるはずはない。私の宝もの、弟子はこれより先、ドンドン増えていく。日本全国、世界各国に拡がっていくのである。信頼関係で結ばれた弟子は私の大切な宝ものなのだ。