体幹

最近のスポーツ選手のあいだでは体幹のコンセプトが理解され、体幹の言葉が流行っている。私が尤氏長寿養生功を始めた時は師母は何も一切の説明もなく、立て!動くな!黙って立ってろ!てな感じで、立たされて、後は居なくなってしまった。愛想もヘッタクレもない。今となって、その立って行なう立禅、すなわち站椿功は実は武術の基礎をしっかり作る土台、体幹を鍛える大事な基礎訓練であることが理解出来る。何も説明されないから私にはチンプンカンプンで身体をリラックスしなくてはいけないことも教えられない。だから、初心者中の初心者である私は緊張して立つことしか出来ない。一時間の後、師母が戻り、手をポンポンと叩く。終わりの合図だ。站椿功が終わって、私の身体はガチガチになっていてそのままバッタリ仰向けに倒れてしまった。師母はマッサー、マッサーと繰り返す。マッサージしろ、と言っている。一時間黙って立っていることは身体が緊張しては出来るものではない。膝を曲げられる限界の所まで下げて手のヒラを下に向けてただ立ち続ける。これでリラックスすると手の形が幽霊の手のようにブランブランとなって、はたから見るとおかしな光景となってしまうが、脚腰のトレーニングであるから上半身にはあまり注意せずにとにかく下半身に身体の荷重を出来るだけかけて立っていると次第に脚腰が鍛えられて同時に上半身がリラックスして来る。古来、武術の修行の最初は掃除洗濯水汲みが当たり前であった。師匠の身の回りを助けて奉仕する意味もあったかもしれないが、実は体幹のトレーニングをさせてケガをしない頑健な身体を作ることが必要であった。土台がシッカリしていないと良い建築物が建たない道理である。そして私は師母を毎日観察して、脚腰の鍛錬と瞑想しかしていないことに気づき始めた。毎日訓練する意味も納得した。まるで和紙を一枚ずつペタペタ筋肉の上に張っていくような作業であって、スポーツ選手のバーベルを使ってする筋肉のトレーニングは厚いダンボールの紙を貼る作業に似ている。ダンボールの紙は手でバリバリ剥がすことができるがぴったりくっついた和紙を剥がすことは出来ないだろう。東洋の神秘的なトレーニングと西洋式のトレーニングの差は薄い和紙と厚いダンボールの紙との違いであると私は今、理解している。どちらが強靭な筋肉を作るか理解出来るであろう。目的が違うからでもあるが、筋肉を鍛える目的が西洋式では逆三角形の身体を作り、女性の気をひく場合もあり、歳をとって、使えるモノにはならない。一方少しずつ一枚ずつペタペタ貼った筋肉は衰えること無く、老人になっても使えるモノである。体幹のトレーニングにはさまざまな目的と方法があること、西洋式と東洋式には決定的な大きな違いがあること、をまず理解せねばならない。