芸術性

武術武道に於いては、相手を突く、蹴る、投げるなどのワザがあるが、武技としてただ突いて蹴って投げるのでは、何の興味も面白味の無い、単なる殴り合い、蹴り合いの、シャモのケンカのような程度のレベルの低い格闘技であって、人間の到達する高度な武術のワザとは言えない。少なくとも、私の目指す理想の武術とは芸術性に富んだ、見て美しく、やってみて楽しい、究極には、健康で長寿になる内容を持つ武術である。尤氏長寿養生功に私はそういう芸術性を感じて、私は氣を繋いで、投げ飛ばす際には美しく投げて、見て美しい、交流して楽しく、面白く、お互いに感動するようになることを目指して氣の交流を行なって来た。三十年の修行を経て、その私の心がけは間違ってはいなかったと自負している。瞑想して美しく感じて、見て美しく、瞑想の中身も美しい。氣の交流後にはお互いに平和で生きることに意義を感じて人生を美しく感じる。そこまで感じることができるようになれば、最善最高の究極の武術と言えるであろう。どうせ武術をするのであるならば、相手と人間的な心の交流があり、平和な心を構築する手段となるものを目指したいものである。太田氣功道場では、道場内の雰囲気も練習内容も心も平和なものであっても、真剣で、筋力トレーニングとしては、オリンピック選手のそれと変わらぬほどにキツいものである。それでも練習後にはみんなの顔に笑みが溢れて和気あいあいとしている、幸せな瞬間である。不思議と殺伐とした空気は無い。芸術家の集まりの雰囲気で、意識は高く、その話題は強い弱いの内容ではなく、究極の武術に関するもので、健康と瞑想や医学的な質問と疑問である。尤氏長寿養生功が百年千年と続く人類の遺産となる性質は何かと尋ねられる時があるとすれば、氣功の武術でありながら、高い芸術性を持つものであると答えることになるであろう。