野心

野心と言う言葉を検索すると、「分に似合わないものを獲得しようとすること」とある。これを受けて、尤氏意拳明光武道の神田真澄こと姜吉隆を振り返って考えてみると、まさにその通りで、姜吉隆の分には似合わない最高の武術の師範になること、自分の年齢にそぐわない収入を得ることには手段を選ばぬやり方で、野心を現実化しようとした者である。文武両道と言って、勉学と武術は両立する、両立出来るものなのである。私が出会った時には志望大学を何回も滑って、自信も希望もない自分の将来に悩んでいた時期であった。師範と収入の両方を手に入れる手段をその時に考えついたかどうかは分からない。私のように触らないで相手を投げ飛ばしてコントロールする氣を簡単に与えてもらえるものであると思っていた節がある。信じられないことだが、本気でそう考えていたと思われる。何回もこのブログ記事に書いたように勁空勁は血の滲むような訓練の末、何十年と修行した結果に出来るものなのである。出会うまでにさまざまなものを苦労もせずに全て与えられて来た恵まれた環境で生きて来て、今回の尤氏長寿養生功も与えられるものであると思ったらしく、日本拳法の大会でも、私が氣を送って、ついに日本拳法で優勝したのであった。私が東京の道場を任せるに私の太田の名前を使った方が道場生を集めやすいとのことで名前も使わせたが、まさかその時には私の名前で権威を使って道場生からカネを集めて借金したりするとは思いもしない。努力せずに今回も欲しいものを手に入れたけども収入が長続きしない。そこで、私を神のように祭り上げてウソと虚偽で東京の道場を自分の思うように操作することになり、私的な生活のカネに困り、寄付という名目でカネを集めて私の名前で大借金して返済もせずに今に至る。師範という肩書きは捨てられない、私から習った初歩の勁空勁を尤氏意拳と呼び、勁空勁が思うように出来ないと見るや、日本拳法を明光武道と呼び始める。どうせ武術であるならグローブと胴をつけた拳法ならチャンピオンにもなっている。ちょうど良い!大本で習った何でも日本に帰する、日本に最初のものがある、と言うことに活路を見いだしてついには自分が最初の明光武道の師範に収まってしまった。何の努力も修行も無く、野心タップリに、日本拳法を明光武道尤氏意拳と名前を変えて宗家創始総師範と名乗っている。野心は我欲である。自分の欲しいものを手段を選ばずに手に入れる時にはウソと虚偽でも構わない。このように手に入れたものは、中身の無い、実体の無いものである。経験がない、実力と資格もない。何でも寄せ集めでごまかしている。幽霊のようなもので、全て事情を知っている私には、バカバカしくふざけたものである。本当の野心家はこんなことはしない。どんなに辛くとも修行を貫き通して自分の世界を作る。尤氏意拳も明光武道も実体の無い世界であって、この世には残らない。幽霊のようなもので、いづれ消え去る運命にある。それにしても、あまりにたくさんの人とドクター尤、師母、日本拳法創始者の顔に泥をぬってはいないか?

野心の最期は醜い心の末路となって醜い結果となる。何も残らない。