真似

人の真似をして生きる人生はどんなことになるのであろうか?朝起きる時と夜寝る時に人の真似をしていることに良心の呵責はないのであろうか?自分の資格と実力が無ければ、真似とウソは自分の格上げするには必要になる。私は人の真似をしたことはないので、その真似人間の心を探ることは出来ない。が、そんなことまでして何を成し遂げようと言うのであろうか?そこまで執着するものは何か?ウソと真似の無い人生こそが真の男が歩む人生ではないのか。私は今老齢期に突入した今、私の人生が楽しくて、面白くて幸せで、毎日を微笑み、笑って、豊かに過ごしている。尤氏長寿養生功を修練した後にこの氣功を教授するようになって、私の人生はますます幸せで豊かなものになった。私にも真似する人がいる。と言うより、目標としている。私の師匠である師母と師母のご主人であった、尤氏長寿養生功の創設者であるドクター尤老師である。尤氏長寿養生功を日本人として初めて、その勁と空勁のワザを習得して、あの厳しかった師母に認められて、今に至っていることに誇りと自信を持って尤氏長寿養生功の正統な流れを汲む自覚と責任を大いに感じている。そして今、この三十年の間私が開拓した私の世界を世に問う時期が来ている。真似の時期は過ぎた。私独自な分野とワザを構築している。僭越なこととは知りながら、三十年前からの人生に起きた流れに沿って、尤氏長寿養生功の正統なワザを使っているうちに自然に私の独自な世界になってきたのである。いつまで経っても真似で終わる芸術や武術はホンモノではない。挑戦と工夫の繰り返しを重ねて自分の独自な革新を加えることは真に伝統を引き継ぐことになる。真似だけで終わるものは価値の無いただのモノマネになり、伝統を引き継ぐこととはならない。私の真似ばかりしている者の真似は何の価値も無いただのモノマネである。