日本人は芸術やスポーツに道と言う言葉をつけることが通常のことである。武ならば、武道、柔道、空手道、人ならば、人道などの道をつける意味は精神的支柱を、自分がしていることに持たせようとする日本人のまじめな性癖から来ているものと思われる。道の中には人生を歩む、の意味も含んでいるだろう。特に武道の場合、人格を磨き、人間完成を目指して修行する意味合いもある。昔なら、人を殺せる日本刀を腰にさすから、その責任は重くなって来る。現代においては命のやりとりをする武術武道はないので、余計に人格形成や心の修行が主たる目的となるだろう。そんな現代の武術事情を鑑みる時には、武術家として絶対にしてはならない不文律と言うものがある。経歴の詐称である。まして、武術武道を教授する立場にある者が習ってもいない経歴を習ったとして武術の師範に収まってしまった者がいるのである。我等が尤氏意拳明光武道の大師範である神田真澄こと姜吉隆である。私の師である欧陽敏師母に数年間の訓練を受けて日本に帰国したとホームページに書いてあったのを私はその記事を読んだことがある。そんな事実は一切無い。一体アメリカに数年の間住む時には何のビザを取ったのであろう。そしてサンフランシスコの師母の道場の近くに住居を構えねばならない。私の知る限りでは、私の家に一カ月滞在しただけのアメリカ滞在であった。旅行者の最長の滞在期間は一カ月で、それ以上は違法滞在となって入国管理事務所の捜査が入り、強制送還の対象になる。一カ月以上の滞在は違法で、それでも数年滞在して訓練を受けたと言うなら、それは真っ赤なウソになる。そんなウソまでついて、習ったとすることは何を意味するか?私になりたかった。私になりすまして武術氣功の師範になりたかったからとしか思えない。しかも尤氏長寿養生功の真髄を習得したと言う。武術氣功を一カ月だけ訓練して師範にはなれない。期間が短かすぎる。私が教えた初歩の初歩の勁空勁を以って真髄と言っているのであろうが、とすれば、よっぽどのアホウか、よっぽどの不遜傲慢な者である。私が手伝ってやっとのことで取った日本拳法のチャンピオンの肩書きだけで、意拳の流れを汲んだ尤氏意拳と言いたいのであろうが、全ての裏の事情を知っている私がいる限り、その野望を果たすことは出来ない。道を踏み外した武術家は、尤氏意拳日本拳法も教えることは出来ない。おそらく日本拳法の団体にも所属しないで日本拳法を教えているのであろうが、また、日本の世の中を欺いて、軽く考えて、日本の社会のルールを守っていない。ウソと虚偽と抜け道をいつもの生き方とする。ここまでバラされたら、万事休す、である。道は道でも、抜け道をして、安楽な近道をいつも探す。そんな修行は武術武道には無い。道を踏み外したならば、正道に戻り、コツコツと踏むべき階段を登って、自分の到達したい所まで歩むことである。他に近道はない。楽ばかりすると苦が待っているだけの話である。苦あれば楽あり、くだらない食事の写真ばかりホームページに掲載しているようでは、意拳の真髄には到達してはいないと思うが、どうであろう?