ニセモノ

ホンモノになれなかった者が、権威が欲しくて、自分を権力者に押し上げようとして、ホンモノを真似して、ホンモノに似せて自分の勢力を作る。尤氏長寿養生功は武術であると同時に芸術でもあり、チベット密教の瞑想と融合した瞑想の文化でもある。中国武術をムリムリ和の武術としてみたり、中国武術を中国拳法と言って、どんな中国武術で誰から習ったかその出自をごまかして瞑想の道場を作ったり、ニセモノ師範はいろいろと考える。変わり身の早さとそのごまかし方に驚くほど感心する。私は尤氏長寿養生功を習い始めた時には、やっと一対一の訓練を私の住む地元で世界一の師匠に習えることに身が震えるほどに嬉しかった。少林寺拳法が本当に中国から伝えられたかどうか、分からないものに私の青春をかけても金太郎飴の一個の支部長止まりにしかならなかったので、余計に勁空勁に私の武術文化に対する集大成となる予感がして、そして尤氏長寿養生功を極めれば、宇宙の真理まで掴めてやっと死ねるとして、私の 全精力を傾けたのであった。超一流のものを教えるには自分が超一流にならなければならない。ニセモノ師範は、何年修行して何年瞑想して誰から習ったか言いたがらない。自分がトップであるには師匠も要らない。自分自身で作り上げたとウソつけばスジが通る。が、自分を表現する時には遠慮はない。自分が一番にならないといけない。私の目から見れば、そいつらが、ハナクソの勁空勁と瞑想を持って、にわか師範となることに非常に不満がある。なぜもっと時間をかけて訓練出来ないのか、せめて、最低限今いる指導員のレベルにまで自分を引き上げられないのか?自分の自己顕示欲が自制出来ない。待てやしない。続けてその自己顕示欲は吐きそうなぐらいに醜く傲慢である。でもまあ、いっぺんやってみることだ。その後に起きる良くない事は自業自得となる。死ぬかもしれない。ニセモノはそれを起点にニセモノは増え続けていく。私は私の知っていることをできる限り教えたけれども、彼らが出来ているとは限らない。道場から一旦出た者はその時から向上は望めない。年を経て氣は落ちるばかりである。ニセモノはいつまで経ってもニセモノで、ホンモノにはなれない。この道理が分からぬからにわか作りのヘボ師範になっている。人間として、そんな自分を眺める時は恥の無い自分であると自慢出来るのであろうか?師母の時から何人の人間がニセモノ師範となっただろう。ヘボ師範の人生には恥がある。寂しくてつまらない。