武術武道

武道は武術から発展した自分の生命の安全と大きなケガをしないルールを決めて、競技形式を採用して勝ち負けを決めるものとなっている。そして人生の中での生きる哲学となっている場合が多いだろう。尤氏長寿養生功チベット密教の瞑想と融合して世界最高の武術、最高の瞑想、のエッセンスを伝える中国武術チベット密教の真髄を伝える氣功武術であって、日本で私が教えた者の中で修行が満ちていない未熟者が新しい武術と名乗ったり、名前のないただの中国拳法と言って、瞑想を教える。どちらも師範とうそぶいている。中国拳法、中国武術の中で、瞑想が主体の修行をするものは尤氏長寿養生功の氣功武術しかない。殺人が目的の武術から健康長寿が目的の氣功武術として私から習っておきながら、尤氏長寿養生功の枠組みの中に組み込まれるのを嫌い、秩序を乱して、夜逃げするようにコソコソと抜け出て自分の道場を立ち上げてしまう。その理由と言えば、ヘドを吐くような自己顕示欲とカネへの欲である。理由は何であろうが、大義名分の無い自己の欲望を満足させる卑怯なケダモノの心の実現実行である。武とは、戈を止めると書く会意文字で  争いを止めるという意味である。究極の意味では、絶対平和の哲学の実践なのだ。瞑想の意味、目的は執着する心の自己顕示欲などの我欲をコントロールすること、なのであるのに、その自己顕示欲とカネへの欲で立ち上げた道場では何を教え導くのであろう。基礎訓練やワザでさえも満足に出来ない者たちが師範であると言う。武術武道でもチベット密教の瞑想でも彼らのカネへの欲と自己顕示欲に対しては無力であった。彼らの生徒は狡猾なキツネ🦊と身に合わない身を飾り羽を広げる孔雀の心の師範たちから一体何を習うのであろうか?