感性と心

尤氏意拳明光武道並びにキッパリ道場の師範総大将たちが尤氏長寿養生功に魅かれて入門して来たその感性は鋭く、あっぱれではあるが、私と指導員を騙して利用して己れの道場をそれぞれに立ち上げたプロセス、それを遂行した心はあっぱれでは無い。醜く、尤氏長寿養生功の団体の秩序と序列を無視した卑劣な行為と言える。人間の感性ある人生は花のある生き方で、オシャレと言うことが出来るだろう。しかし、人生においてよりもっと大事なものは感性では無い。心であると、私は思う。正直と責任感が欠如していたのではないか?一人は自分の容姿に自信があって、イケメンと自負しているようだ。他の一人も背が高く容姿にまたもや自信があり、外みの外見が両者共に大事だ。私には気持ちが悪い。人間の価値は心で決まる。顔はイケメン、美人でも心がブスならば、興醒めであろう。類は友を呼ぶ。同じ心を持つ生徒が集まることは朱に交われば赤くなる、のことわざ通りになって行くとは思わないか?私はイケメンでも何でも無い。が、私の指導員は全員が正直で責任感あり、優しい心の持ち主たちである。私とは信頼関係で結ばれて、つい先日もアメリカから送られて来たドクター尤老師と師母の推手のビデオテープを全員で一緒に私の自宅で鑑賞したばかりで、希少な尊い大事なテープを私はみんなで見て、勉強しようと提案したのである。私はこのテープを見て、訓練に励んでいた。誰にでも見せられない大事なものである。私は指導員にも見せなくても良かったのであるが、信頼する指導員には秘密、極秘のテープは共有するべきと思ったのだ。共存共栄で、彼らの心に応えたい。このように心と心の繋がりが師と弟子の関係の基盤である。カネでも感性でも容姿でも無い。心なのだ。正直と従順な心は師弟関係を密接なものにする。弟子が怪しい動きで、道場の規則を破り、心の無い感性で自己顕示欲の新設ニセ尤氏長寿養生功の団体を作れば、もはや師弟関係を放棄したことになるだろう。どんな理由で、どんな言い訳をしようが、その心を信じることはもはや、出来ないだろう。綺麗でイケメン、その人間の心は醜い。心はもう繋がってない。彼らの道場にはイケメンでも、心の醜い者がたくさん集まるようになる。類は友を呼ぶ。