欲望

欲望には二種類があると言う。ひとつは私欲、自分の本能を満足させようとする欲望、我欲である。我欲は生きている限り、生命のあるところ、本能であるから消えることは無い。仏教ではこの我欲を火にたとえて業火などと呼ぶ場合もあり、自分の業をコントロールするのが禅の目的であるとする。瞑想をしても消えない火がある。嫉妬と自己顕示欲だ。嫉妬は仏教の高僧でも無くならないと言うから、アメリカでも私の尤氏長寿養生功の修行後に教え始めた時にも集まった道場生の連れがアメリカ人で、私が一回だけ見せた勁空勁に狂ったように嫉妬して、うるさくつきまとい、一日中電話をかけて来て、基礎訓練はそっちのけにして、勁空勁のワザに執着心を持ち、私がマスコミに取り上げられたことに対して、自分もマスコミに取り上げられたいとの想いを追いかけ回して、大分迷惑をかけられた。私の家の周りをウロウロして何とか、上級のコースに入りたがって、子どもがオモチャを欲しがるようにダダをこねた。こんなことがあって、日本に帰国して、またもや同じことが二度も起きてしまった。これは私がマスコミに登場してダイナミックに、センセーショナルに芸能人を投げた結果の私の責任でもあろう。人によっては、その部分と今はカネなどないが、一時期三百人、五百人と道場生が集まったこともあり、羽振りの良さを見て、そこだけ目に映り、金銭欲から、私に近づいて来た者がいた。また、人を集めて自分の職業のひとつに加えて何かを企らむ者も出てきた。人の欲望は果てしなく、一度欲望を達成すると次の欲望も達成しようとどんなことをしてでも、達成しようともがき苦しむ。見ていて、見苦しく、あつかましくて、哀れだ。本人はそのように見られているのに気づかない。手のヒラの上でジッと見つめられていることにすら気づくこともない。何人も同じような自己顕示欲のかたまり人間が入れ替わり立ち代わりに出入りするので、慣れっこになってはいるが、とにかくねじ込むように入り込み、想いを遂げて時期が来れば、尻をまくって、逃げるように出て行ってしまう。恥も外聞も無い。そんな他人を押しのけても達成しようとする欲望は、結果、上手く行くことは無い。破滅か自滅が待っていることを知らない。