知足

足るを知らない者は、何を得ても満足は出来ない。コップの中に入った水が半分あっても、半分「しか」無い、と思ってしまう。日本拳法のチャンピオンになっても、教員免許を取っても、モデルになっても、まだ満足出来はしない。私のように勁空勁が使えるだけでなく、自分の武術団体、瞑想団体の「師範」にならないと気がすまない。勇気がないのに勇気を他人に説く。勁空勁が極限にまで出来ないのに勁空勁の出来る宗家創始の大師範と名乗らないと気がすまない。目立ち過ぎたら、全てのウソと事実はあからさまになる。ほど良い塩梅が分からないようだ。あさましい行為は、自分の持っているモノ、自分が出来ることを越えて専門分野を飛び越えて、無理をして違法なことをして、社会常識を越えてしてしまう。自分の分を越えて過ぎたるモノを執拗に求めると逆にシッペ返しを食らい、世の中の笑い者になってしまうことをこの愚かな二団体の総師範総大将は知らない。どっちも充分な基礎が無いから雰囲気だけで教えるしかない。世の中には自分の手に入らないモノがほとんどである。無理に盗むようにして立ち上げるおぞましい団体はすぐにポシャって、新規の生徒は敬遠して入会をためらう。どのみち潰れてしまう。勁空勁が出来ない武術と深い瞑想を教えられない瞑想団体が存続出来る理由はない。ましてや総大将は突きや蹴りも、武術の経験もない素人である。教員とモデルの肩書き以上のものを欲しがって、自分に満足出来ない者は自滅する。このことは私が言っていることではない。歴史の先人が書物に書いているのである。ま、無駄な時間を使って真理を学び、挫折を味わうのも人生である。賢い者は先人から学び、無駄な時間は使わないものだ。いつまで愚か者と言われねばならないのだろう。賢人は知足を知っている。一方、愚人は知足を知らない。