充実感

もし、許されることがあるならば、たったひとつだけ、キッパリ道場の総大将と尤氏意拳の総師範に聞きたいことがある。お前たちで立ち上げたニセ武術、ニセ瞑想の道場を寝ないで考えつく前に私が教えた基礎訓練を誤魔化さずにその修行をやり終えたという充実感はあったか、今思い出しても充実感があるか?という問いにどう答えることか?答えることなどは出来ないはずだ。Yes, と答えたらウソになる。修行は満ちていなかった。 No, と答えたら、やっぱり充実感のないニセの武術と瞑想の道場である。私には師母との三十年間の毎日の修行をやり遂げたという充実感と誇りがある。だから、私は尤氏長寿養生功を愛することができるのである。彼らには尤氏長寿養生功への愛などはない。

私にはことこの氣功武術に関してはウソをつく理由はない。なぜなら、三十年のあいだに毎日二回朝と夜の練習に参加して、毎回ほとんどブッ倒れるまで、訓練したことに加えて、師母から金の指輪と写真をいただいて、日本で教える時には師母から学んだと言うんだぞ!と申し渡されて日本での教授を認可されたのである。そして、その約束を今も果たしている。また、師母の娘さんのミミからも父親であるドクター尤老師の名前を日本全国に知らしめて欲しいとの言葉をもらったのである。そういうことがあって、今があるのだ。だから、私には修行をやり遂げ、この氣功武術を通して、私の世界を作り上げているという充実感がある。尤氏意拳の総師範とキッパリ道場の総大将共に修行をやり遂げた充実感はあるか?その充実感がないのに道場で生徒に何を教えるのか?教える内容は何なのか?月謝を生徒が払う価値があるか?もし私にこの師範師たちと会話することが許されるならば、前述の質問をして答えをもらいたい。そんな機会があったとしても、総大将と総師範は答えられないだろう。日本人にはニセモノは似合わない。日本人にはホンモノだけを訓練修行し、ホンモノの道場を開く義務と権利がある。ニセモノ武術尤氏意拳、ニセモノ瞑想、  キッパリ道場には日本人が学ぶものは何もない。日本拳法を学ぶならばホンモノの日本拳法を学べ!瞑想を学ぶならばホンモノの禅を学べ!