資質

我々は習ってもいないことを習った、と言うであろうか?武術を学び、資格も無いのに自分を師範と言うであろうか?更に、人の名前で個人から借金をして十年の間に一円の返済もせずに平然とできるであろうか?もう一人、瞑想の時間が短いのに、自らを師範、総大将と呼んで瞑想の道場を開くだろうか?私には信じられない、驚くべきことである。両名共に恥も無く、いけしゃあしゃあとケツをまくってなにごともなかったように毎日を過ごしている。こんな大それたことをできるその人となり、性格、資質はどんなものなのであろうか?この行為の原因は何なのか?資質と生い立ちの家庭環境の二つの理由が考えられる。私は環境説は採らない。どんな家庭環境、生い立ちが何であれ、白か黒かの最終的決断は本人の理性と人間性に任される。両者共に私といる時には、大人しく、虫も殺さぬ態度で私を油断させて自分に必要な情報を集めて、ウソをつき、さっさと自分の企らむ道場開設を資格無く、私の許可無く、実行してしまう。幼少の頃から抱く、黒いエネルギーの悪の資質は大人になっても、引きずってついにはこんなに社会のルールを破っても、他人を押しのけても、自分の想いを遂げるのである。今、私の太田氣功道場に集まるこの二人の資質に比べれば、その道場生の資質は月とスッポンほどの差があって、信頼関係を基に、私は尤氏意拳の総師範とキッパリ道場の総大将のレベルを超える武術気功にある武術と瞑想を教えて、この日本の社会でキッパリ道場と尤氏意拳を学ぶ生徒たちが恥ずかしい想いをするほどの決定的な差をつけるように今、真剣な修練を続けている。悪の資質と善の資質は、彼らが総大将総師範と悦に入っている内にその資質の差はますます大きく開くこととなる。彼らはこんなことわざを知らない。ウソはドロボウの始まり、ということを。