無学貧困

私の生まれは貧困家庭で、特に母親は幼い頃養女に出されて小学校もろくに通わせられなかったらしい。父親は酒が好きで、酒の飲み過ぎて、若くして死んだ。母は父を怨み、父のお気に入りであった私を折檻を理由に幼い私を今で言う虐待をしたのであった。貧困の上に母親が無学では、私が小さい時には良く冬にはしもやけにかかって、手足の指が毎年赤く膨れ上がってかゆくてかゆくてたまらなかった。単純に栄養失調だったのだ。そんな私が小学校の時に結核にかかったのは当然であったろう。幼い頃の思い出は灰色で、何も面白いことは無かった。でも野球をして、投げてはボールは遠くに飛ぶし、水泳の時間は私の平泳ぎは自由型で泳ぐ同級生に勝った。自分の運動神経はそんなに悪くない、と思っていたのであった。勉強を頑張って東京の大学に行けば、こんな家庭から抜け出せる、と思って学業で良い成績を取って、好きであった英語を活かせる大学を選び、合格、入学を果たした。念願だった武術武道を学ぶ機会が訪れて毎日練習した。泳ぎが得意だったから、赤十字の人命救助員の資格モ取って、夏のアルバイトで、海で溺れかかった子どもたちを救ったこともある。大学は経済的事情により中退せざるを得なかった。身体はがっしりした体格となって、ラグビー部に誘われたこともあったが、あまりボール競技には興味が湧かなかった。無学貧困家庭に育った私は自分の中身を鍛えて、何もない私が自分に身につける技術に興味があったのだ。東洋医学に興味を持つことは当然であったろう。語学を今でも好きな理由も同じ理由で、自分に身につけることでも、知的満足と外国人とコミュニケーションが取れる合理性がある。タヒチで小学校に通い、フランス語とポリネシア語を学ぶことが非常に楽しみである。私の意志で大学を中退した訳ではないから今でも勉学を続けることには違和感はない。尤氏長寿養生功は武術と瞑想、東洋医学が全て学ぶことができる。私には理想的な勉学の対象になっている。無学貧困の母親は私に大学へは行って欲しく無かった。教育には超無関心で、高校を卒業してすぐ働いて家にお金を入れて欲しかっただけの親子関係だったのだ。だから、裕福だった友人の父親に借金して大学の入学金を払ったのであった。あれから半世紀が過ぎて、無学貧困家庭の子息であった私は、誰もマネの出来ない勁空勁を修めて、尤氏長寿養生功を教授している。再来年にはタヒチに移住して、世界へと進出する。無学貧困は個人の努力精進によって克服できる。自分が理想とする職業にもつける。親のレベルに引下げようと親の暗黙の強制に逆らい、自由と幸せは、自分のチカラで獲得することができる。私はもう無学貧困ではない。