誇りと生き甲斐

尤氏長寿養生功の修練修行前の私にはホンモノの誇りというものはなかったように思われる。人生を生きる上に誇りは絶対に必要なものである。尤氏長寿養生功と出逢って、毎回ブッ倒れるまで過酷な訓練を続けているうちにドクター尤老師や王向斉老師の魂が乗り移ったのであろうか?不思議に尤氏長寿養生功の一道場生で唯一人の日本人という事で、私に自覚と責任と誇りを感じ始めた。カネも無く、衣服も練習用のシャツとパンツである 。一年中過ごして食事も当時一番安い中華のヤムチャであった。でも、私は世にも稀で特殊な武術を訓練しているとの自負だけが私を支えていた。誇りさえあれば、どんな境遇も、何も無くても、生きていける。逆に誇りを失って、ウソをついた、虚偽の人生を生きる者が糊口の為に人を騙してカネを得ることは智慧ではなく、詐欺である。太田氣功道場にも誇りを捨てた者たちが詐欺で自分の道場を開いてカネを稼ぐ見っともない行為をしている。私は最近、怒りが薄れ、気の毒な、憐れみの気持ちしか無くなっている。何を言っても馬耳東風であるからだ。自分たちがしていることに生き甲斐を感じている、といったたわごとを言うなら、人間の良心をも捨てたも同然である。人間でありながら、人間で無い。ただのクソ袋と化している。これは、哀れ、と言うしかない。人間は誇りを自分に持ち、仕事を生き甲斐に感じて生きる人生に責任を取る。私は尤氏長寿養生功の修行の後にこの氣功を教授する身になって、ますます誇りに自信が加わって、今は生き甲斐を感じて生きている。私と尤氏長寿養生功の間の関係ではウソ偽りや大げさな宣伝などしたことは微塵もない。その必要は無かった。尤氏意拳とキッパリの二人にはウソ偽りと大げさな宣伝は必須なものである。それがなくば、自分たちの修行の大きな穴を埋められない。修行時間が圧倒的に足りないから実力が伴っていない。これでは、誇りも生き甲斐も感じるはずはない。誇りと生き甲斐のある人生は素晴らしい。この境地を味わうこと無く、人間としての誇りも感じること無く、ただ悪名と卑怯な行為を人前に晒して死んで行く人生を送らざるを得ない。この二人の人生を想う時、憐れみを感じてしまう。が、それは同情ではない。私の人生はさらに、面白く、生き生きと日本とタヒチのあいだを行き来して、尤氏長寿養生功に誇りと生き甲斐を感じて、嬉しく、楽しい日々を送っている。日々是好日。