みかけと中身

二人の愚かであつかましい離叛者が太田氣功道場から出たことを受けて、この恥の無い行為をして、何の良心も咎めない言動を彼らの未熟な心を映すホームページを読んだ後の私の印象は、中身の無い内容を教える自分をマスターと呼ぶ、その図々しさには呆れるばかりである。中身はサッパリキッパリと無いが、みかけは、事情を知らない者が読んだり、見たりしたら信じ込むようにプレゼンテーションだけは、私が感心するほど立派である。でも実力中身は無い。実力と中身が無いから、自分で自分をマスターと呼ぶしか無い。哀れな愚行を繰り返している。どんなに身を飾り、言葉で自分の穴を埋めようが、実力中身が無い事実を変えることは出来ない。このツッパリねえちゃんのキッパリ道場とアホの尤氏意拳の師範師たちを見るにつれ、みかけだけに時間とカネをかける人間であると思わざるを得ない。実力と中身に時間をかけずにみかけと外見をいかに上手く見せるかということに集中する。それだけは実力がある、と認めよう。しかし、中身が無いので、そのうわべだけのみかけはいづれ破綻する。どんなことも中身が表面に表れて来ることをこの愚かであつかましい二人のマスターたちはキッパリとサッパリと知っていない。知っていれば、こんな中学生でも知る道理を破ってこのような愚行を実行しないだろう。ものを知る者や本質を求める者、審美眼を持つ者はせせら笑って、みかけ、外見には見向きもしないだろう。中身と実力というものは、時間もお金もかかるものである。お金も使わない、時間が惜しい、では何も習えない。一生死ぬまで、中身の無い武術と瞑想をみかけだけで、道場を運営して、せいぜい笑われて醜い姿を晒すことである。