氣は神のエネルギー

以上の言葉は百歳でお亡くなりになった大本教の大先輩の難波先生からの私が最初にお会いした時に頂いたものである。それ以来、この言葉を念頭に尤氏長寿養生功を極限のところまで修練に打ち込んで、今でも極限のところまで、神のエネルギーになるよう毎日の訓練に勤しんでいる。タヒチではフランスのカソリックの教えが徹底していて、食事の前のお祈りや日常生活に神の話が普通に出てくる。私がお世話になったフランス人の家が山の頂上付近にあって、そこからの眺めはまるで神界から現界を見下ろすような場所にある。私は夜に寝るのを惜しむように毎朝三時、四時に起きて座禅をしていると、この心優しいフランス人のニコラがチョット遅れて五時頃に瞑想をしに同じ場所に来ていた。彼はヨガもやっていて、お馴染みのフルロータスの脚を完全に組んだ形式の瞑想法で、一緒に瞑想すると空気の広がりを感じてものすごく気持ちが良い。氣功には一カ月前に来ていると言う。標高が結構高いところでの瞑想はこのニコラの人柄もあって、神のエネルギーを感じたものであった。私が氣の正体が宇宙の暗黒エネルギー、暗黒物質ではないか?と直感的に感じて今では確信しているのであるが、このニコラも敬虔なカソリック信者なので、人格者である。彼は山歩きや滝巡りが趣味で山の頂上付近にある滝をまるで所有しているように流れ落ちる水をプールに引き込んで、私も毎日泳いだのである。左手と左足が不自由で身体が左半分沈んでしまい、危なく溺れそうになったところを見てアレコレと助けてくれて、心がとても綺麗な男であった。いっぺんに友人となったのはもちろんのことである。ヨガをしているので氣には特別に敏感で、毎日氣功の要点を教えて、私が帰国する前にはタヒチの指導員より上達して目の神、シェンまで感じて私の目で投げられるようになっていた。もう上級者の位置にいるのであった。氣の世界では、氣を感じる者神に近づく者がドンドン上達する。ニコラは敬虔なカソリック信者なのでもしかしたら彼の氣は神のエネルギーであったかもしれない。宗教のいかんに関わらず、氣は神のエネルギーを持つ者を好むかもしれない。最後に難波先生の話は、多岐に渡り合気道植芝盛平が綾部の山中を気合いを挙げて毎日のように駆け回っていた、と言う話もされていた。百歳を超えて生きた方は何でも知っている。