阪神大震災

二十四年前にそれは起こった。私は当時、大阪豊中市の高層マンションの十四階に住んでいて、朝の三時から瞑想をしていた時であった。突然グラグラッと揺れて、その時にはカーテンを全て開けて真っ暗な外の闇が同時にパッと明るくなったのである。後で分かったが、地層がズレて磁気が発生して明るくなった と言う。私はその目撃者であった。私は立ち上がり、状況の確認をしようとしたが、私の強い脚でも立っていることはできなかった。揺れが止まることは無かったので、用意していた風呂に入って揺れながら、湯船に浸かっていた。道場に行くために幹部道場生のクルマで堺の街に向かうが、余震がひどく、高架の下に止まるのは危険なのを指摘しながら道場に三、四時間かけて到着した。神戸からの道場生の安否を確認して、道場が健在であったことを確認後、家に戻った。二、三日後には軽トラックを借りて、神戸まで救援物資を取りまとめて神戸に出発したけども、時速10キロほどでノロノロと一日かけて到着したのであった。途中二階が地面にある家を何十軒何百軒と見る。まるで爆撃を受けた街のようで、人々は冷たいコンクリートの上に蒲団を敷いて寝ている上から雪が降っていた。心はズタズタに引き裂かれた。これが私の体験した阪神大震災である。だが、大震災は初めてではない。アメリカサンフランシスコでも私は大震災を経験している。だから、あまり慌てることも無かったのである。サンフランシスコでは、そのときはキャンピングカーを持って来ていたので、何日でもそのクルマの中で生活出来るので安心だった。サンフランシスコのほとんどの四辻では逃げ惑うアメリカ人のクルマが衝突していた。我先に逃げようとする西洋人の醜態である。神戸では救援物資をもらう人々は列を作って順番を待っていた。同じ経験をしても、人間としての誇りと礼節を重んじる日本人を垣間見た瞬間だった。しかし、この大惨事の時を利用する者もいた。日本人の汚さと礼節の両方を見たのが私にとっての阪神大震災であった。もう二十四年になる。