職人氣質

日本には職人氣質の究極の技術を身につけた職人が数多くいると思われる。私はこの職人氣質の性格というか特徴は日本人独特の民族性ではないかと思っている。針の先をとことんまで尖らせて、技術を究極にまで高める。尤氏長寿養生功の勁空勁は同じように針の穴を通り抜けるような修行の末に出来るようになるのだ。少なくとも私の経験ではそうであった。私の前に先輩道場生が四年、十年と私より先に修行訓練を始めている。追いつく為には、才能資質に劣る私は他の道場生よりも練習を数多くこなすしか方法は無いと考えて他の道場生が週一回来るならば、私は毎日 二回練習して師母とマンツウマンで教えを乞うたのである。妥協は無かった。家財道具を全て売ったお金で月謝を捻出して他の道場生の何倍もの月謝を払い、私の患者さんの家に無料で一室を借りて支出を抑えた。その時の心境は、やっと私の理想とする武術に出会い、しかも、その武術は私の東洋医学の基礎の氣を養成する武術気功であったので、渡りに舟という想いがあり、私の生涯でこの機会を置いて、学ぶことは出来ないと考えた。後にも先にも今しかない!という心境であった。毎日が楽しくて楽しくてしょうがない。好きなことを好きなだけ徹底的にワザを研究して究極のところまで高める職人氣質の日本人としての面目躍如となった。回りに日本人は誰もいない。アメリカ人と中国人しかいないので、日本人の代表として見っともないところは見せられない。倒れるまでジャンプした。站椿功も一旦ポーズを決めたら一時間、手を降ろしたことは無かった。尤氏長寿養生功の訓練は職人氣質の者の為にあるようなものである。だから、一流の職人や一流の芸術家の言葉に対して私は敏感に反応する。共感する部分があって、何を言おうとしているのか、自然と私の経験と重ね合わせて、理解できるのである。一流のスポーツ選手、一流の武術家、ボクシングのチャンピオン、弓道の師範、等、等、我々は究極を極めた同じグループのメンバーのようなものである。職人氣質の集団である。私はテレビ局の番組で以上の一流スポーツ選手や武道家と氣の交流をした。そのせいで、その分野の特徴が良く分かり、その後の氣の研究にとても役立った。テレビ局の要請はとても無理なこともあったが、私の良い経験になるので、なるべく断らずにその一流の分野の人と交流した。一流のスポーツ選手や武道家はさすがに氣が出ている人が多い。氣が出ているので、意外に簡単に投げ飛ばして氣でコントロール出来たのであった。これほどのチャンスを与えられた私は運が良く、尤氏長寿養生功を拡める条件を全て与えられた。感謝の言葉しかない。海外では、日本人の職人氣質はとても珍しく、海外には無いものであるから、驚異を持って、受け入れられる。日本では職人氣質と言うと古臭く頑固なイメージがあるだろうが、日本の古臭く頑固な職人氣質の技術は海外では、もろ手を挙げて歓迎される。このことからも、日本人はもう一度西洋主義に染まってしまった考え方を反省して考え直す時に来ているのではないだろうか?職人氣質は悪くない。むしろ、日本人の  鋭い感性で民族性なのである。そして今の時代、海外では、受け入れられている。尊敬の念で扱われる。