一芸に秀ず

どんな技術もワザもその道の一芸に秀でることは他の芸にも通じることが出来る。一芸に秀でる者は多芸に通ずと言っている。私は今、他の芸術、技芸に関する記述を読むことが楽しみになって、他の人がそれを習得する際の修練方法や残した言葉を吟味することに私の体験を重ね合わせて、研究するのがほぼ毎日の日課となっている。針の穴を潜り抜けるような訓練を見聞することは大いなる勉強となっているのである。だから、毎日が退屈することが無い。いつも知的好奇心を持って、さまざまな情報に接している。私の老後は忙しく、しなければならないことが山ほどあって、時間がいくらあっても足りない。私のワザは円熟期を迎えて、次なるステージに入ろうとしている。武術的な分野のみならず、医術的分野にも私の氣が効果を発揮しているのである。日本には氣功研究所を設立して、タヒチに於いては、マナ氣功研究所を設立する。鍼灸と氣功を駆使して治療も行ないたい。タヒチでは私の中医としてのライセンスが使用出来るので治療は合法であるが、日本に於いては、指導員が医師の資格と鍼灸師の資格があるので、鍼は資格者が打つ。練習と同時に治療も行ないたいと考えている。タヒチ移住の前に一人でも、病いに悩む人の役に立ちたい。氣を使った鍼治療は効果絶大だ。タヒチに於いては、初回の一回の治療で、痛みが取れて、歩けなかった患者がすぐに歩いて帰宅する。禁煙希望のおばさんは一回の治療で喫煙を辞めてしまった。私はアメリカで麻薬患者にボランティアで治療していたので、経験は充分にある。私は治療に hypnosis 催眠も使う。ガン治療の為に催眠療法士の資格も取ったのだ。私は催眠に氣を使うので、催眠の教師より私の方が効果的で、催眠では私が上である。一芸に秀でると他の技術も、特に氣を訓練して一芸に秀でると専門家より上のレベルになってしまう。氣が全ての人間活動の基礎、源で、脳の活性化を大いに促進するから当たり前のことなのだ。催眠も氣功も脳の活性化をする共通点がある。二つのサークルを部分的に重ねて共有する部分が出来るようなものである。私がこう言うと、なあんだ、じゃあ氣功は催眠なのだ。と短絡的に考える者が出てくる。こんな単純な頭を持つ者とは話が出来ない。氣功が催眠ならば、催眠術師が氣で勁空勁を打てる筈である。催眠術師は氣功の勁空勁を打つことは出来ない。しかし私は催眠が、催眠術師より上の催眠が出来る。このことは何を意味するのであろうか?氣功で培う脳の活性化は催眠の脳の活性化より広範囲で深いのであろうと私は推測する。脳科学の研究で明らかになることである。一芸に秀ずる者は多芸に通ず、である。