修行

どんなことを選び、その目的と目標を向かって努力することは修行と言えるだろう。例えば、登山が好きな者が山に登る時には登るあいだには何も考えずに登ることに集中していないか?日本の山は、山岳修験者が装備も不十分な時代に生命を懸けて全国の険しい山を神に対面する為に登ったのであった。ただの登山や遊びではない。登ること自体が修行であった。登っているうちに自分のこころに出会い、魂が揺さぶられる。尤氏長寿養生功も例に漏れず、武術の訓練の為の瞑想はただの武術の訓練を飛び越えて、いつのまにか自分の心に向きあってしまっている。ただ瞑想を繰り返すのではない。日々の生活を反省する、人としてどう生きるか、武術とは?生きるとは?さまざまな自分の考えを絞り、哲学が産まれてくる。己れの心に向き合うことになる。武術的修行も勝ち負けや競争とは無縁な自分の中の神仏と対話をしている。これはもう修行である。好きなことに打ち込んでいるうちには右へ行くか左かこのまま続けて行くか悩む時もあるだろう。そんな時にはこれは自分の魂を磨く修行であったと自覚するべきである。行き詰まる時には前に進むしかない。山の頂上に到達するまでは修行と思って登っているうちに頂上にいつの間にか到達しているものである。最後の最後まで諦めなかった私は道場の筆頭となり尤氏長寿養生功の教授を許されて、その後に自分の世界を拡げることが出来たのであった。