武術の理想

私が若い頃に夢中になった武術武道では試合形式の競争は無く、簡単な瞑想もありはしたが、尤氏長寿養生功に比べれば不十分なものだった。雰囲気だけでは仏教を装っていたが、私の武術の理想を体現していたのは、尤氏長寿養生功だけである。究極の武術武道では、勝ち負けを追及するものではないことはもちろん、身体の内側を鍛えて心の平安を求め、周りの人間と共生する。毎日の瞑想が日課となって、生活の一部になる。武術武道そのものが生きる糧となり、手を一閃すれば、巨人であっても、宙を舞う。かと言って奢り高ぶらない。冗談が分かり、見知らぬ人と友人になる。倹約質素を旨として、人生を楽しむ。武術武道を競争の域から抜け出せぬ者は、まだまだ未熟で尤氏長寿養生功を訓練するレベルにはならない。タヒチでも、日本でも、巨人を私が氣で投げたからと言って、すぐに実戦で使えないか?と聞いて来る者があって、まるで試合形式において、近道の魔法があるかのごとくに思うのである。私が巨人を投げる場合は氣功のルールを守ってもらうのであるから私が勝って当たり前である。巨人のチカラには私が敵うはずもない。巨人を投げられるほどの氣のチカラを養成するまでにどれほどの体幹レーニングとどれだけの瞑想の時間が必要なのであろう。この訓練の時間の長さや薄紙を一枚、一枚貼るような作業の後に見えて来る世界がある。その心の揺るがない世界が武術武道の理想なのである。どちらが強いかではない、絶対平和、共存共生の世界である。