弟子と生徒

中国の弟子と言うことと日本の弟子と言うことの内容と意味は全く違うものである。日本では武術武道で入門すると弟子と呼ぶようであるが、私が学んだ尤氏長寿養生功の師母は、なかなかに道場生を弟子とは呼ばなかった。だから、私は中国の文化的なものもあって道場生を全て弟子と呼ぶことに抵抗がある。中国の伝統的な武術に於ける弟子とは昔の徒弟制度のような、師を絶対的な存在として身の回りの世話はもちろんのこと、肉親の親以上の存在として尽くしたのである。私自身はただの道場生とはなりたくない気持ちが強く、もっと師母に近づきたいと思っていたので、師母は私を弟子とは呼ばなかったが、私側では私が弟子であるとの認識で、車での送迎を買って出て、毎回の練習に私の車で送り迎えをしたり、訓練後の食事など、常に寄り添っていた。私は私の車を三年ほどで乗り潰してしまった。だから、師母とは、個人的な繋がりで心の交流があった。私の片言の中国語と師母のチョットの英語であまり会話が滑らかにはならないが、私の忠節を知って欲しかったのである。それほど尤氏長寿養生功は私にとって大事なものであった。今の時代に徒弟制度で私の道場生を縛りつけるほどに私は封建的ではない。しかし、日本のように簡単に誰でも弟子と呼ぶことが出来ないことも私の心である。そこで私は出来るだけ、気持ちを一つにするように心と心の交流を深めて私と道場生の関係を保とうとしている。タヒチの島では人口が一万五千人しかいないので、人と人の距離が近く、道場生以上の、友人となる関係に必然的になってしまう。すでに友人となっているフランス人道場生がもうすぐ来日して、一緒に鎌倉と京都を私が案内することになっている。初めての日本での練習に参加する予定もある。フランス本国に尤氏長寿養生功が上陸することは時間の問題である。尤氏長寿養生功の伝播の流れはもう出来ている。ニューカレドニアにも支部がすぐに出来る流れが出来ているのだ。私がタヒチに行けば、大きな波になる。楽しみでならない。