知足

人間が自分の持っているものに満足出来ない時には、人間は不幸せに思うしかない。心は絶えず、足りないと思う穴を埋めようと焦りと他人を羨ましいと思う妬み、嫉妬の心が芽生えるのである。さまざまないやらしい行動に出る。ますます失態や犯罪的な行為を犯して不幸せとなる。私が老齢の身体障害者となっているにも関わらず、こんなにも幸せになっている理由をいつも考えている。最大の理由は私が今の私に満足しているからであろう。半世紀の間に私はカネにもならない武術武道に私の人生を捧げて、老齢になって障害者となったが、失ったものに別れを告げて、武術修行から得たものを大切に他人を感動させ、喜んでもらえるワザを武術、医療の分野で構築できた満足感と自信と誇りがあるからである、と思う。私の持つものに嫉妬して、私と同じことをマネした者も私の道場から出たけども、幸せの度合いには雲泥の差があるだろう。ワザの完成を待たずに道場を開いては、知足の心は無いだろうし、ワザや瞑想が穴ボコだらけでは、いつも心の奥に後ろめたいものと焦り、焦燥感が入り混じったモヤモヤしたモノを引きずって残りの人生を生きねばならないから、修行をやり切って、脚を失っても、私の世界を構築できた私の幸せには、到底及ばない。人のマネをして、 ワザと瞑想を奪って行っても、幸せになることはない。五体満足で私より大きな体格をして、何が不満であったのかは知らないが、カネか社会的認知度か、自分たちに足りないものを私が持っていたからである。と言えるだろう。しかし、以前も今もカネも認知度も私にはない。それが ワザだとすれば、私がしたように訓練すれば済むことなのにそれもしたくない。これをパクリと言うか、ドロボーと言うか?自分のものでないもの、自分のものとしていないものを教えて師範と名乗る行為を日本では詐欺と呼ぶのではないか?幸せになる方が間違っている。不幸せになって当然だ。