内と外

修験道の世界では、命を落とす危険を犯して、山野を十年も二十年も毎日走るように駆け巡る。インドの行者も肉体をいじめるようにして精神を鍛えあげるのであることはすでに知っていることだろう。阿闍梨になることや、ヨガの仙人になることの共通点は外側の肉体を練磨して内側の精神に迫る修行をすることである。私にも覚えがある。とても、とても難しい勁空勁を学ぶ為には肉体をいじめるように鍛えて、身体から氣が溢れ出るまで訓練して身体の内側にある氣を養成したのであった。人間は肉体と精神しかない。精神は、氣は肉体によって作られる。精神のみで氣を、精神を作ることはとても出来ないことである。外側から内側に向かう時に氣、精神に影響を与えることができるのだ。知識だけでは、氣は育たない。畳の上で水練をして泳ぎを学ぶようなものである。たまに、氣功を本を読んで学んだ、自分はある日突然できるようになった、とか私にはとても信じられないようなことを言って来た者がいたが、私にとっての武術氣功は時に残酷な拷問のような訓練をしなければ、上達出来ないものである。だから、自分で独自にできるようになったなどと言うことは信じられないのである。阿闍梨になるのもヨガの行者になるのも長い年月をかけて師から学んで修行の仕方方法を教えてもらうのである。勝手に自分一人で行者になることや阿闍梨になることはとても危険なことである。死の危険や氣が狂うこともある。誰かが側で見守り、アドバイスが必要なのである。尤氏長寿養生功を一人で見よう見真似で練習したり、中途半端で辞めて教え始めた者はアメリカでも、日本でも大勢いる。とても危険で無責任な行為である。深い瞑想をせねばならない氣功であって、肉体の変調や精神がおかしくなった場合の対処法も知らずに教えたら、道場生は危険にさらされる。死んだりする可能性もある。殺人者になってしまう。教えて楽に稼ぐ手段、と簡単に考える浅はかな愚か者の行為である。今ごろ、ケガをした生徒や死んだ生徒がいるかもしれない。一体どう責任を取るつもりだろうか?そしてこの氣功の氣の大先生や大瞑想家と称する者は何処へ到達するのであろうか?