心と天国

死後に天国に行くか地獄に行くかは、現世に於ける心のありようそのままの心が反映するものである、と私は習ったのであるが、現世に於いても、同様に心のありようが幸不幸を決めるのであると私は思う。カネとモノをたくさん持つことが幸せだと思って尤氏長寿養生功のワザと瞑想を盗み取って勝手に道場を開けた者たちが幸せであるとは私には思えない。許しも無いのに盗みを働き、許可も無く、実力を認められもせずに道場を開けることがどんな心のありようであるかは小中学生でも明白だろう。師母は、長いあいだの瞑想の後に我々道場生にも誰にも歯に絹着せぬものの言い方で本質を貫く発言をするので、嫌われることもあったが、私は逆にそんなストレートに言ってくれる師母の性格が心地良かった。そんな師母におべっかや甘えるような仕草で師母のご機嫌を取ろうとする者も実際にはいたのである。百歳の年月を生きた師母にはそんなことなど通じるはずも無い。瞑想で澄み切った師母の心には心と,百パーセントの真摯な姿勢の訓練で相対せねば、答えてくれない。中途半端な心、中途半端な訓練では鼻にもかけてくれない。私は誠心誠意、野心の無い心と訓練の後に毎回、ぶっ倒れるほどに体力限界ギリギリまでジャンプ震脚と站椿功に精を出した。師母は私の態度を認めて私に特別に多くを教え、尤氏教授の許可も与えてくれたのであると、今になって思えば、私の心が師母の心に届きそこにある種の共有された融通無碍の天国のような空間が出来上がっていたのでは無かろうか?先日も私が四年間、探し続けた私の友人夫妻とついにテレビ電話で繋がり、旧交を温めたのであった。何も言わずとも、心が通じ合い、その場でも天国のような雰囲気のある空間であった。カネとモノが必要で無い空間で、まさしく天国である。尤氏長寿養生功を弘めるうちにさまざまな出会いがあり、縁のある人が良縁となって、天国の空間を体感する私はますます心を磨いて、人生を天国に近づけてもっと楽しく嬉しい幸せなものにしたいと願っている。豊かな心が幸せを得る手段である。カネやモノではないはずだ。余りあるカネとモノがあるからといっても幸せになるとは限らない。幸せで豊かな人生は心の豊かな者に訪れる。馬の耳に念仏ならぬロバの耳に念仏となってしまう人間もいる。