水鳥

今日も幹部道場生に言ったのであるが、我々は水鳥のようにあらねばならない、と。何故ならば、水面上に浮かぶ水鳥はのどかにスイスイと楽そうに泳いでいるように見えるのだが、水面下の足は指と指の間にある水かきを使って懸命に水を漕いで前に進んでいる。我々の目には水面下の足の動きは見えない。懸命に泳いでいることを知りはしない。我々の訓練も同じように、人に知られず、練習訓練も水鳥たちの足の動きのように懸命に行わねばならない。練習訓練の時には百二十パーセント、百五十パーセント、のチカラでぶっ倒れるほどに精魂傾けて行ない、実際にワザを使う時には、その半分くらいのチカラ、六、七割くらいのチカラで人を投げ飛ばしコントロールする。それが私が師母からいただいた教えであった。私が簡単に、軽いチカラで二メートルもある大男を投げ飛ばしている姿を見て、私がとてもリラックスしてそのようにしていることを、簡単にやっているとしか思えない。どれだけの訓練練習をしていたのか知る者はいないだろう。触らずに大きな人間を氣だけのチカラで投げてコントロールするにはどれほどの練習が必要になるのか?震脚を何回?瞑想を何時間?師母が七十年間した訓練練習を私は三十年しかしていない。師匠の訓練練習時間の半分もしていない私の伎倆がどれほどのものであるか、そして師母のチカラがどれだけのものであるかが、目がついている者なら、理解できるであろう。私が水鳥を見る時気楽にのんびりとゆったりと泳いでいる、と思うことは私にはとても出来ない。奇跡的な簡単にサッと出来ているワザを見る時には、その裏ではどれほどの努力をしているのであるか、見えないところでの準備と訓練練習を想像して自分への戒めとするべきである。