空海の通った道

私は空海と私を同等にして比較するなどという大それた考えは、もちろん無いが、尤氏長寿養生功密教の瞑想をしている限りは、仏教の修行と同じことをしているので、その瞑想中に感覚的に起こる出来事は空海が経験したことも我々は経験しているはずである。チベット密教の修行の中でも一番古い流派の瞑想法を取り入れていると聞いているからきっと空海もこの流派の瞑想をしていたに違いない。それで、私がどうりでさまざまな神秘体験をしていたのである。チベット密教の修行僧は、今風に言えば、超能力と言われることをこともなげにするのだと言う。それでも彼らは自慢することも無いし、人に見せることもしない。修行の途中に起こることであって、そのチカラを得ることが目的ではないからだ。あくまでも仏教の悟りの境地を得ることが目的である。他には執着するものが無い。ドクター尤老師の目的は健康長寿であった。最初に意拳を習得したので、空勁に興味を覚えて站椿功が瞑想であったから、瞑想の極地を研究したら密教の瞑想法に到達しただけの話なので悟りの境地を開こうと思った訳ではないだろう。しかし、ドクター尤老師も師母も私と同じように神秘体験をして空海の体験と同じ感覚を得たはずである。サンフランシスコの道場には、近隣の禅センターの坊さんたちが大勢訪れてドクター尤に瞑想のことを盛んに聞いてドクター尤老師が質問に答えて問答をしていた、と言うことを私は師母から何遍も聞いたことがある。千年前に空海が唐から持ち帰って来た瞑想が現代において太田氣功道場で学べることはほとんど奇跡的なことではないだろうか?私が尤氏長寿養生功をサンフランシスコで学んだことも奇跡だが、私の通氣も奇跡、空海が学んだ瞑想と同じものであったのも奇跡、私が日本で教授しているのも、これからタヒチを通過してフランス経由でヨーロッパに尤氏が行くのも奇跡、尤氏の氣によって国指定の難病を治していることも奇跡、私には全てが奇跡に思われる。そう言えば勁空勁も奇跡的である。しかも勁空勁はただの通過点で、目的は健康長寿であって患者の治療でもある。