上達と下達

武術武道を学ぶ者の中に、さまざまな小手先のワザをほんの少しだけ浅く学び武術武道の全てを学んだような知ったかぶりをする、浅はかな者を見たことがあるだろう。私が三十年ほど前にテレビに取り上げられてチョットは名が知られた時にも、自分の浅い知識をひけらかして私と競うように滔々と自慢をした者をたくさん見たのである。ある者は私が誰であるか分かっていたようで、ワザでは叶わないと思ったか、急に中国語でベラベラと私に話して氣の飛ばしを自慢する者がいた。そして、髪が黒いことをも自慢する。あんたが習ったのは、氣功じゃなくて、中国語だったのか?と言いたかったが、言うだけ時間の無駄と思い、黙ってその場を去った。こう言う者を下達と言う。反して、武術に限らず他の分野においても、本質を初めから見抜きたったひとつのワザや技術を深く研究錬磨して真に使えるワザや技術にする者は上達と呼ばれる。いくら最高最強のワザを習ったと言っても、下達では何にもならない。一つのワザは単なる技術ではあるが、その一つのワザだけを何万回、何百万回と訓練することの方が、たくさんのワザを浅く覚えることよりも、ずっと怖ろしい。浅い一万の知識よりも一つの深く熟練した経験の方が重みのある威力抜群な効果のあるワザ、技術であると言えよう。鍼灸の鍼も同じことである。尤氏長寿養生功はその上達を目指す氣功武術である。ペラペラと薄い紙のような知識をひけらかして人の目を引こうとする者の中で、一つのワザを何百万回と熟練したものを披露することは尤氏長寿養生功の勁空勁のワザに似ているだろう。いや、尤氏長寿養生功の勁空勁が上達そのものである。初対面の人に勁空勁をかけることの難しさを知る者はむやみに浅い知識をひけらかすことはない。ただ、どうしても乞われる時に軽くやってこなすだけのことである。基本の訓練を何百万回としてその勁力を蓄えてあるから出来ることなのだ。知っていることと、出来ることには大きな違いがある。知っていることは出来ることではない。ものごとの本質は、歴史の長い国で培われた慧眼を持つ武術家の言葉から出るものによって、このように真実をえぐる真理である。