太田氣功道場の構想

今までの太田氣功道場の路線を大きく修正して、本来のドクター尤老師が目指していた健康長寿、医療部門にシフトしている路線を歩み始めた太田氣功道場であるが、今までは、私は習った通りの武術に重きを置いた教授をして先客万来のオープンな来たる者は拒まない自由に任せていた運営方針であったのだが、たちの悪い者たちが、実力も無く、修行年数もそこそこに、私欲と世間に名を売りたいが為に自分のニセ武術道場とニセ瞑想道場を開く愚かな行為をしたことなどを受けて、今まで私がしていなかった、私が自信のある治療技術を公開、開示して鍼灸師を中心に講習会を開いた結果、熊本に於いて、難病患者と脳梗塞後遺症の患者を相手にあのような奇跡的な治療結果を出すことになったのである。スイス人の治療師も私の道場生となった、その流れは、運命が私にこの道を進め、と言われているように思われて私に届く情報は遠隔氣功やスピリチャルヒーリング、その他の種類のヒーリングに最近はなっている。お陰でその方面の勉強が現在進みつつある。面白いことに尤氏長寿養生功を修めて、勁空勁を教授出来るまでになった私は人間が行なう活動の裏側にある氣を自由に扱えることでそれらの遠隔氣功やヒーリングまでも、少し習って訓練すると教師と同じレベルで出来ている。不思議なチカラが私にはついているのである。私が病院で点滴を受けた際に看護師が打った注射は静脈に入らずに声が出るほど強い痛みがあって、腕はのちほどパンパンに腫れて大きく青アザが出来ていた。もし、私が、今看護師になって注射を打てば、まったく痛み無く、患者に打てるはずである。患者に対して緊張感はまったく無く、この氣功でリラックスした身体は何をするにも腕や指先に緊張が無く、呼吸を駆使して動きはスムースであるからだ。ある道を究めると他の道を究めた者のワザに通ずることになっている。大学で習ったエピステモロジーと言う考え方は、どんな学問でも学んだ者が深く究めて深くなればなるほど、井戸の地下水のように他の土地に掘った穴も深く掘ると同じ水脈に到達して同じ水を汲むことができるようになっている。例えば、数学と音楽は共通点があって、良い数学者は音楽を理解できるようになっているようなものである。鍼も注射も針の太さが違うだけで、行為そのものは似たことであるからもっと簡単なことになるだろう。他にも私がエンジョイしてできるものがあって得意なことは結構ある。人間の活動は、特に武術などは、人間が持つ腕は二本で、脚も二本であるから、できることは限られており流派が変わっても、することはあまり変わらない。そんな状況で、何が名人達人とそうでない者を別けるかと言えば、それは、氣を持っているか、いないかの違いであろう。武術で無くても、普通のこと、例えば医療の分野で、鍼灸師を含め、治療師の良し悪しを決めることも、氣が関係する。医師が治せない痛みや病氣を私は数えきれぬほど完治させた経験がある。私は現在、人生の中の晩年に居ると言えよう。人間は長く生きると自分の持つワザを人の役に立つことになるような使い方をしたくなる。若い者は自分を全面に押し出して自分のチカラを誇示したくなることが常であろう。それはそれで構わないだろうが、ドクター尤老師がせっかく武術の意拳から健康長寿目的の尤氏長寿養生功に昇華させたものを名声や自己顕示欲の為の道具になってしまうことを私が許してしまう訳にはいかないだろう。正しい道を歩めば、自ずと道は開けるに違い無い。良因良果である。他人の痛みを消して病状を改善して患者の笑顔を見て我も喜び、お互いに幸せになる。これは仏教で言う利他の行である。いつの間にか、仏道の修行をしていることになる。この構想を日本全国、ヨーロッパへと発展拡大することが現在の私の夢となっている。