瞑想の時間

瞑想を教える者が教える前に充分な経験体験が無いままに瞑想を教えるとどうなることか?危険なことが起きることは間違い無い。私の瞑想、特に立禅、站椿功の時間を計算してみた。一度の練習で、一時間立つ立禅站椿功を練習全体で一回三時間半、一日二回行っていたので立禅は一日二時間、一週間で十四時間、一カ月で五十六時間、一年で六百七十二時間、二十年間毎日訓練したので、一万三千四百四十四時間になる。この立禅站椿功の他にも座禅があって、同じく一時間行なう。立禅座禅の両方の瞑想の合計は一万三千四百四十四時間の二倍になる。私のジャンプの回数の計算でも思ったことではあるが、二万六千八百八十ハ時間の瞑想が、尤氏長寿養生功を教えるに充分なものであるかどうか私には分からない。私がたった一カ月の間教えて、師母にたった二回面会させただけのことを尾ひれ背びれ皆つけて己れを孔雀の羽根のように大きく偽装して氣功武術の達人に自分で自分を飾り立てて、瞑想の分野の大瞑想家として世の中の人をたぶらかしている今は尤氏意拳改め、明光武道の宗家創始総師範である姜吉隆は私から習った一カ月と二回の師母との面会を持って、意拳の真髄を会得したと豪語して新しい氣の武術を創始したと言っている。アメリカに数年滞在して師母と過酷な訓練したと言い、カリフォルニア州のキックボクシングのチャンピオンにもなったとも言っている。日本人には外国のことは何も知らないと思ってこんなマンガのようなウソをつき、今、宗家創始総師範と自称していることは真っ赤なウソであるのは、私がこの一年間糾弾のブログ記事を書いたので、知らない人はいなくなったと思うが、ここまで恥の無い行為を犯す者を私はこれまでの人生で、見たことも聞いたこともない。ウソと虚偽で詐欺を働く者が同じ系列の氣功武術を名乗ることにはどうも納得出来ない。と同時に怒りが腹の底からこみ上げて来る。瞑想の充分な経験無く、大瞑想家を気取る。姜吉隆の化けの皮を剥がす為に、裁判所に提訴するつもりである。詐欺罪で告発する。一般社会人が他人の名前を使い、借用書を書き、九百万円の借金をするであろうか?これは立派な犯罪の詐欺である。刑務所に入ってもらうのが妥当の行為である。十年間も借金の返済せずに逃げ回った日本に住む者がこんなことをするであろうか?逃げ回り、何事も無かったように平然と社会生活を送ることは出来ないことを思い知らせてやる。自分を飾ることは声高に大袈裟にホームページに掲載して、都合の悪いことには、口をつぐみ、逃げ回るその人間性はまるで幼稚園児のものである。体格は人並み以上だが、内面は幼稚園児の者が、武術の達人のフリをする。関わった人に不快な思いをさせて、怒りを与える。日本の社会には必要な人間ではない。自分の国で、ウソをつき、虚偽の経歴を持って生きて行くことを勧めたい。陪審員は起訴文の内容を聞いて、どんな反応をするのであろうか?

大相撲

名古屋場所では横綱大関が休場して、つまらない場所になると思われていたが、なかなかに面白い取り組みがあって興味深い場所になった。相撲の稽古は朝早く、朝食前にガッチリ稽古して一汗かいた後にチャンコを食べて筋肉を増やしてその後に昼寝をして成長ホルモンを出して身体を大きくして筋力を蓄えて筋肉の上に脂肪をつけて皮下脂肪をクッション代わりにする。高い所から落ちてもケガの無い身体を作り、あんな大きな身体の関取が股割りで、腹と頭が床にペターっとつくまでに身体が柔らかい。全て戦いの為の身体を作り、ケガの無い身体を作る為のものである。何一つ無駄無く、運動生理学の理論に叶ったトレーニングである。四股もその一つで、体幹を鍛えるに最適な稽古で、下半身をドッシリとさせて太腿の筋力強化するもので、毎日毎日同じことの繰り返しで少しずつでも身体を強化鍛練して相撲を取れるプロとしての体力気力体格を作るのである。我々は四股の代わりにジャンプする。尤氏長寿養生功も同様に毎日毎日同じことの繰り返しで、下半身を鍛えて体幹を作り、太腿の大腿四頭筋を出来るだけ大きくするのである。その訓練はまるで相撲であるが、上半身は鍛えない。相撲のテッポウの代わりに上級者と師母の両肩を走って行って思い切り押すのである。長寿養生功と言っても、原型は意拳の武術であるから、私が修行していた時は完全に武術で、相撲ではないか?と思うほどにテッポウと四股、ジャンプを毎日何百回何千回としたものであった。いつの間にか、太腿は太く大きくなって肩の僧帽筋は盛り上がって、小型の相撲取りのような身体付きになっていた。相撲と違うのは上半身に筋肉をつけない。上半身はリラックスして下半身はドッシリと強く重い。上虚下実となって行く。下半身のチカラを上半身の腕に伝えるワザを覚えるといずれ、フニャフニャした腕と手で相手を押し返して相手が倒れるところまでに上達する。相撲に長寿養生功を取り入れたら、いっぺんにお相撲さんが強くなってしまうなぁといつも思う私がいる。いつの日か、そんなチャンスが訪れる日が来るのではないかと心の中で期待して心待ちにしている。

一貫性

自分が決めたことを、何年経っても、言うことと為すことを変えずに成し遂げることには一貫性があって、その一貫性のあることを押し通すことは周りの人間から信頼されて高い評価を得るであろう。私の道場生の一人から、最近、神田真澄こと神田吉隆のニセ団体は尤氏意拳の名称を使ってないようである、との報告を受けて調べてみると、確かに尤氏意拳の名前が見当たらない。日本拳法を誤魔化して、明光武道など言う訳の分からぬ名前を付けて日本拳法と一線を画してその実、相も変わらずに日本拳法を中心に新しい武術としてるらしい。日本拳法の連盟に連絡を取って、明光武道の名前で、その実日本拳法を教えている者がいるから処分として破門にでもしたらどうですか?と言ったら、あまりに小さな団体で、別に痛くも痒くも無いことです。と歯牙にもかけない様子であった。ある時には威勢良く、尤氏意拳の名前を使い、私が登録商標を申請して裁判出廷をほのめかすと尤氏意拳の名前を引っ込めて、明光武道の名前を押し出す。一貫性もクソも無い。なぜに尤氏意拳の名前を付けたか良くわからない。哲学も実力も資格も無い宗家創始総師範はそんなに武術が好きで、得意で日本拳法に思い入れがあるのならば、なぜ、日本拳法と名乗らないのであろうか?ましてや武術武道などを教えるのであるならば、一旦決めた名前を出したり引っ込めたりしないはずである。家の箪笥や引き出しでもあるまいし。それほどにいい加減な考え方で、武術武道や瞑想を口にする。こんな一貫性のない者の言うことを誰が信じると言うのだろうか?たった一カ月くらいの私との訓練とたった二回の師母との面会で新しい気の武術を立ち上げるほどに武術武道の天才なのであろうか?

まるでマンガのようなストーリーの展開を見せてニセウソのハナクソ武術武道団体を率いて、その社会を惑わし、世の中の人を騙す神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆はどう責任を取り、どう落とし前をつけるつもりなのだろうか?

Give alittle, Take a little

 英語で言う共存共栄の哲学を恋人間の関係に当てはめると、こんな言い方になるらしい。太田氣功道場では、道場生の持つ特技や才能を発揮してもらい、太田氣功道場を発展拡大することに寄与して欲しいと思い、三年前に日本に帰国してから道場内で私が道場生にお願いしていたことなのである。その道場生みんなの協力の甲斐あって、三年後の今、文字通りに日本を飛び出して、世界に羽ばたくことになった。タヒチに私が在住してタヒチを拠点にヨーロッパや東南アジアに支部開設を果たす。少し与えて少しもらうとこれが恋が成就して恋人同士幸せになることの秘訣であると英語の歌で言っている。恋人同士に限らず、相手がいる、人間関係の基本的なルールだろう。一方的に自分一人が良くなって、あとの者はどうなっても良いと自己中心的で、利己的な人間は疎外されて、嫌われて、小さな共同体、社会から締め出されて追放されて、当たり前なことである。社会性のない者、一般社会のルールを守れない者は一般人と一緒の社会の中には住めない。その騙されて、カネを奪われ、十年を無駄にされた人々の怒りは神田真澄こと神田吉隆こと姜吉隆の身に襲いかかろうとしている。姜吉隆を裁判に引きずり出し、私の名前を使った借金が、詐欺の行為に当たるか否かは裁判官に委ねよう。罪があれば、刑務所に行く。無くとも千六百万円ものカネの返済をせねばならない。どっちに転んでも、罪の償いはさせられる。返済すべきカネを十年も頰かぶりをして逃げ回ったツケは大きい。

芸術性

武術武道に於いては、相手を突く、蹴る、投げるなどのワザがあるが、武技としてただ突いて蹴って投げるのでは、何の興味も面白味の無い、単なる殴り合い、蹴り合いの、シャモのケンカのような程度のレベルの低い格闘技であって、人間の到達する高度な武術のワザとは言えない。少なくとも、私の目指す理想の武術とは芸術性に富んだ、見て美しく、やってみて楽しい、究極には、健康で長寿になる内容を持つ武術である。尤氏長寿養生功に私はそういう芸術性を感じて、私は氣を繋いで、投げ飛ばす際には美しく投げて、見て美しい、交流して楽しく、面白く、お互いに感動するようになることを目指して氣の交流を行なって来た。三十年の修行を経て、その私の心がけは間違ってはいなかったと自負している。瞑想して美しく感じて、見て美しく、瞑想の中身も美しい。氣の交流後にはお互いに平和で生きることに意義を感じて人生を美しく感じる。そこまで感じることができるようになれば、最善最高の究極の武術と言えるであろう。どうせ武術をするのであるならば、相手と人間的な心の交流があり、平和な心を構築する手段となるものを目指したいものである。太田氣功道場では、道場内の雰囲気も練習内容も心も平和なものであっても、真剣で、筋力トレーニングとしては、オリンピック選手のそれと変わらぬほどにキツいものである。それでも練習後にはみんなの顔に笑みが溢れて和気あいあいとしている、幸せな瞬間である。不思議と殺伐とした空気は無い。芸術家の集まりの雰囲気で、意識は高く、その話題は強い弱いの内容ではなく、究極の武術に関するもので、健康と瞑想や医学的な質問と疑問である。尤氏長寿養生功が百年千年と続く人類の遺産となる性質は何かと尋ねられる時があるとすれば、氣功の武術でありながら、高い芸術性を持つものであると答えることになるであろう。

縁, 良縁悪縁

先回の縁の話の続きである。縁には良縁と悪縁の二つがある。幸せになるには、悪縁を切り、遠ざけて、良縁を結ぶことである。私が以前、ドップリと深く関わっていた者は私を利用して両肩に背負わせて、自分だけが生き残ろうと考えていたから、私が苦しんで当たり前なことである。他にも見渡せば、こんな悪い関係はいくらでも、どこにでもあろう。早くそんな割に合わない関係は切って、新しく良縁を結ばねばならない。一方的な貢ぐだけの、貢がされるだけの関係は良い関わりとはならない。私はこの忌まわしい悪縁を断ち切って、幸せになって、私の道場生とは素晴らしい関係を築き上げて、私の人生は、晩年、嬉しく楽しいものになって他人に分けてあげたいほどに幸せになった。どこにでも幸せの輪をどこまでも拡大して行ける。人間、生まれた限りは素晴らしい人生を歩んで、幸せになりたい。早く生まれた環境の悪縁を断ち切り、業を良縁に変えて、自分の道を進みたい。人は生まれながらに自由である。鎖をがんじがらめに身体に巻きつけられて、他人の業まで背負わさられる必要は無い。一日も早く悪縁を良縁に変えることが大切だ。悪縁しかない、良縁が見当たらないならば、せめて、悪縁を切ってしまおう。悪いエネルギーが立ち去った後には、良縁が来ることを信じてあげるとそのようになって来る。陰と陽のエネルギーは時間と共に変わり、陰は陽に陽は陰に移り変わる。状況は必ず、底にいた者は上に行き、上にいた者は底に沈む。悪縁の時に腐らず、良縁の時に驕らずに最善を尽くす。私の体験から言える私の哲学である。

今、尤氏長寿養生功太田氣功道場には縁ある者たちが、私がアメリカから帰国後三年目にして、続々と集まって来ている。縁と言うものは不思議で、素晴らしいものである。奇跡が起きている。絶対私一人では出来得ないことが、難なく勝手にスムースに進んで行く。私欲が無いから、私一人の願いでは無いので、みんなで、私の願いを共有しているので、物事が早く進む。タヒチでもそうであったが、日本でも同じような人との良い関わりが、さらに良い繋がりを持って、同じ志を持つ人が集まって来ている。私にはありがたく、勿体無い気持ちで、新しい道場生を迎える。2020年の東京オリンピックにはタヒチからたくさんの人が私の住むところの島から日本とオリンピック見物にやって来る。いづれは逆に日本から私の道場生がタヒチを訪れるような段取りやプログラムが設置されて、日本とタヒチの交流が盛んになるだろう。今の時点で、その下準備が行われている。タヒチの人々のご先祖様はアジア人で、台湾の一部族がルーツとされている。台湾を出発して東へ東へとイースター島あたりまで移住して行ったらしい。島の人々だから日本人と似ているところがある。日本人にはとっつき易い。特に私は彼らとはすぐに打ち解けて、友達になって、ある中国人タヒチアンとは兄弟のように親しくなっている。家族のようなものである。縁である。初めてあったとは思えない。両方の国が私の母国のようなもので、私の友人の父親のお墓参りは当然なようにして、なぜか、その父親の霊魂が私をタヒチに呼んでくれているような感覚で、気になって、気になって、しょうがない。インドネシアとタイで講習会を開催したいと思っていると、私のアメリカの道場生から連絡入り、タイとインドネシアに元学友がビジネスを現地でもしていて住んでいると言う。私の新規道場生もタイでレストランを経営しているのだと言う。これはもう偶然じゃない。縁が絡んで、行け行けドンドンと言うようなものである。邪魔するものはない。縁が繋がりあって、ますます良い繋がりの輪が広がって行く。人々の健康と長寿を願って、私心無く毎日を一生懸命にするべきことをしていると、こんなように勝手に自然にものごとが前に進んで行く。縁こそ人生の潤滑油であり、接着剤となって円滑に人生を歩んで行くことができる必要な巡り合わせである。

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