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神田真澄こと神田吉隆という人間の考察

神田真澄という本名ではない名前を使って、私太田光信のサル真似をして虚偽の話をデッチあげて自分で勝手に自分の都合の良い自分に似合わない、たいそうな尤氏意拳などという武術団体を立ち上げた者の本名は神田吉隆と言う。この神田吉隆がナゼに私のすることなすことをすっかり真似て私とそんなに張り合うのか考えてみた。まずどんなことを真似ているのか一つ一つ、事例を挙げてみよう。

一、私がテレビに取り上げられたのを真似て、自分もテレビに出る。自分がテレビに出た時は太田真澄と名乗り、私の後継者と世間に思わそう、あるいは名乗っていたらしい。あまりにテレビに出たくて誰も見ないような深夜のテレビ番組にも喜んで出ていたとの報告が道場生からあった。

二、私がサンフランシスコのローカルの新聞に取り上げられた後に、カナダはバンクーバーのローカルの新聞に出る。ナゼ東京の新聞でなくバンクーバーなのか?理由など私が知るべくもなく、同じ海外の新聞に取り上げられたとして私に対抗したとしか思えない。

三、私がヒゲを伸ばすと、すぐ真似て自分も伸ばす。形まで同じだ。

四、私が神意拳の創設の時に使った言葉を全て真似て、日本人の体力や文化と融合して団体を立ち上げたとしたのだがこの神田吉隆も同じことを言って、尤氏意拳を創設したと言うのである。

五、私が武術としてではなく健康長寿の氣功としてメチャクチャになった太田道場を帰国後すぐに再建して太田氣功道場として養生氣功を核として教え始めるや

尤氏意拳の謳い文句を健康主体のように言う。

以上のことを読んだ者はニセと虚偽のこの神田吉隆をどのように思い、感じるだろうか?私が見るには自分に自信なく、己れの核、考えと哲学のない人間なのだ。これだけ真似されると気持ちの悪いものである。一切の関係を切っているので神田吉隆がやる事なす事は収拾がつかなくなっており、混迷の度合いがキツくなっておるようである。鳥取まで逃げて借金逃れをしているのである。今は神田真澄改め、神田吉隆の名前を使っているようである。どんな社会であれ、偽名を使って、借金したり、カネを巻き上げることは許されない。それには何か理由があるに違いない。神田吉隆のホームページにも奇異な点がある。良く、英語の表現が出てくる。そしてセレブの文字が読める。人間の研究は観察が必要である。

小さな部分を合わせていくと大きな絵になるように、人間の使う言葉をつなぎ合わせていくと、その人間の核の部分が見えてくる。中学生の使う単語を並べて自分の考えを披露することは、同じレベルの人間達を集める。であるから、その文武のレベルも分かってくる。ミーハーなのである。人間が軽過ぎる。神田吉隆は自分の兄やおばさんにテレビ番組に出て出演料が百万円だったと言っていたとのことである。それは私がアメリカから私の妻と一緒に日本のテレビ局に呼ばれてある番組に出演した時のことである。いつのまにか、神田吉隆が太田光信に奴の頭の中で同じことになったらしい。カネ、見栄、虚偽、そしてウソ。その嘘も少し後にはバレバレである。尤氏意拳

自分の今までの人生があまりに惨めだったから、一発大きな花火を打ち上げたかったか?花火も間違えると爆弾になる。あまり頭が良いようには思えない。四十を過ぎて中学生の英単語を使うようでは尤氏意拳の文武もどんなレベルか分かるというものである。そして何時もセレブ、、、。尤氏意拳に集まる生徒は、それではあまりに惨めで可哀想ではないか。尤氏意拳の武的技倆にしても師母とのジャンプがたった二日の二回だけでは尤氏意拳も何もたまらないではないか。私のジャンプはホームページに書いてある。十年間で三百六十万回である。私の中では、それでも足りているのかわからない。それでも私は神田吉隆が得意の秘伝、秘技である勁と空勁の技を講習会に参加した初対面の者達に体験させている。これではどっちが尤氏意拳なのであるかわからないではないか?私は私の団体をドクター尤の名前をつけて尤氏意拳などとは、おそれ多くて呼べるものではない。ドクター尤がどれほどの勁と空勁の使い手であったか知らないからそんなアホウなことができるのだ。メクラ蛇に怖じずというものである。私の足下にも及ばぬ者が私でも考えもつかないことを平気でできる者なのである。アホというかメクラというか、開いた口が塞がらない。これからこの神田吉隆という精神欠陥人間が引きいるニセと虚偽の尤氏意拳がどんな結末と最期を遂げるか見ものであるが、いつまでたっても勁と空勁は無く、あいも変わらず面とグローブつけてシャモのケンカのようなことをしているのであろうが。未だに道場生には毎月これだけ返済しますという誠実な連絡無く

おそらくホームページにこの酒とメシが美味いなどの低レベルな健康法を掲載しているであろうが、、、。どこに神田吉隆の中に誠実や良心や人間性があるか?

仲間である、特に同じ氣功を訓練する者を裏切り、カネを巻き上げ、返済意思のない借金したりするような人間はもはや日本人ではない。早く日本を出て、アメリカにでも行った方が良い。神田吉隆が大好きな弱肉強食の世界とカネとモノなどの即物的な人間と対象物がたくさん待っている。まだあった。神田吉隆のおじさんの家に呼ばれて返済意思のない借金のことで叱責を受けた時に、仮にも、一時期師匠であった私を「あいつ」と呼んでいたとの報告をおじさんから聞いたのである。金と既得権を私が与える間は「先生」で太田の姓の使用禁止と道場の既得権を失った途端に「あいつ」である。いやはや、なんという人間性であろうか?私が今は幸せの絶頂にあるのはこの神田吉隆という人間と関係を絶ったからに違いない。悪性のエネルギーと訣別して私の指導員始め、良心ある良性のエネルギーを持つ道場生に囲まれている私が幸せに思えて、幸せの絶頂にあるのは当然である。負のエネルギーを捨てて正のエネルギーに囲まれれば環境も身体も負にはならない。今、神田吉隆の回りに集う者達もこれをよく読み、神田吉隆の人間性を研究せよと忠告したい。我々は貴重な人生の中の時間を無駄にした。お前達の時間とカネはもっと効果的に有効に使い、人生をよりもっと有意義なものにしなくてはいけない。

文武両道の私の私見

文武両道に少しでも触れたので私の文武両道の私見を披露したい。文と言えば学問、学業と言う事になる。武となれば武的な技術一般を含めた武術的な綜合的技倆になるだろうか。私が五十年来、関わったいわゆる武術武道指導者の中には人格共に立派な人もいたのであるが、もちろん、いつも言う反面教師となるダメ武術家武道家もいたのである。ハンコで押したようにカネカネカネの指導者であった。私は生まれつきノンビリした性格のせいか武道とカネを結びつけることは出来なかった。そんなことはルール違反であさましいと思っていた。たまたま、私が習った氣功武術が日本のテレビで全国的に取り上げられて、開いて道場は脱税で有名になった呼吸法の生徒で満員になった私を見た神田吉隆は母親と姉さんをフルに活用して私の指導を月謝も払わずにある程度のレベルまで習うには習ったが私が病氣で倒れるや、烈火の如くに私をなじり、私が倒れたら、自分のモチベーションを何処にもってけ!ば良いんですかと私に向かって怒る始末である。自分で企画した日本での地位を私を神格化する事によって不動のものにしてあわよくば丸ごと乗っ取って仕舞おうとの計画がフイになるからだ。そもそも、私の姓を使ってウソと虚偽で全体の構図を作るなど、スグに破綻するのはどんな人間でも分かることだ。どっちみち、神田吉隆の言動に不審な点が多々あって私と道場生を分断して自分が中に入って、勝手に自分に都合の良いように行動し始めていたので、どのように幕を引こうかと考えていたのである。そんな矢先に、道場生へのカネの不祥事が発覚して神田吉隆との関係は切れたのであった。道場がなくなっても何処かの公園で続けると言う狂った事を言うので、もう終わりにしようと説得して縁を切ったのである。最期の行動が見苦しい。自分で私を神格化しておいて、私を不死身の人間のように道場生に説明していたのである。自分でも自分のしたコトがゴッチャになって、氣功を教える者は病氣にならずに死にもしないと思っていたようだ。私を神格化することで自分の格上げしてその計画が崩れるので私に怒ったらしい。勝手な人間である。幼稚園児の頭では無理もないが、、、。単純でこういう時はなだめるのに苦労する。私をいつも、父、父と呼んでいたので、父がムスコの面倒みるのは当たり前だろうと言う又自分で描いた身勝手なストーリーだろうか?いずれにしても、又、同じカネカネカネの武道家だ。もうウンザリだ。私が引き寄せたエネルギーだろうが、余りに運が悪すぎた。私が自分のお金と時間、エネルギーを使ってこんな者の尻ぬぐいばかりだ。以前にも同じような事はあった。本人には武術教授は向いてないから、マトモに真面目に働けと言ったが言う事を聞くような人間ではない。私はアメリカで真面目に働いて自分の家を三回買った。働けば、真面目に働けば、家なぞスグ買える。モチロン、当時、家は頑張れば買えるものであった。日本の家が高すぎる。それはさておき、私が知り合ったダメ武術家武道家は武ばかりやって、学業をおろそかにしていたようだ。私の経験では、学業のレベルと武のレベルは同じ線上にあると思われる。尤氏意拳のホームページを良く読むが、気になる箇所がある。いつも英語の表現が出てくる。セレブの間に氣功が流行している。だから貴方もやりなさい、ということであろうが、そんな話は聞いたことはない。西洋の話は日本人は弱く、そんな子供騙しに乗るバカな日本人はいない。私はそんな手には乗らない。武に何を求めるかが問題である。私は幼い頃から身体が弱く柔道、空手、剣道にすごく、興味があったが医者から激しい運動と体育は禁じられていたので武道などはご法度である。東京の大学では真っ先に少林寺拳法に入会して毎日練習した。数年すると身体が出来てがっしりした体格を手に入れて、病氣もしなくなった。成人するから当たり前と言えば当たり前ではあるが、とにかく嬉しかった。英語は私が得意とするもので中学で教科書を手にした時から一生懸命に勉強したものである。大学も英語の特化した大学を選んだ。大学の間に英会話をマスターして、渡米したのであった。いろいろあって、この氣功に出会って、私の人生は大きく転換したのである。人並み以上に勉強したものがあれば武術の修行も苦にはならない。激しく苛酷な訓練ではあったが今となっては苦しい、キツイ修行も笑い飛ばせるのである。文武は一対で自分の人格、性格を陶冶して人生の軸となる指針を作る。自分の核を作るのだ。神田吉隆は人格、性格も歪んでしまって人生も歪み破綻している筈だ。いずれ、道場生や友人も去り、孤立無援の一人ぽっちになって最期を遂げる。ウソや虚偽は悪性のエネルギーであるが、その非を認めてやり直せば、その思考と行為は良性であるから、人生も好転する。神田吉隆が何時も言ってたオトコは、本物の男は、自分の非を認めてやり直せる人間ではないだろうか。一生懸命に自分の穴を埋める為にウソをつく人間と一生懸命にコツコツとウソをつかずに、誠実に生きていく人間とでは、神様はどちらにチカラをお貸しするであろうか?私はドクター尤と師母の教えの通り、瞑想を日課として誠実に私の人生を全うしたい。私の道場生は私の家族同然である。ウソも虚偽も作り話も無い関係と絆を作りたい。文武の修行は果てしない、終わりのない修行である。人格、性格、人生を向上して誠実で楽しく嬉しい人生を私は終えたい。修行はまだ続く。

 

パクリの尤氏意拳

あの噂の尤氏意拳日本拳法を除いてすべてパクリである。例えば、大本教の難波先生、食制の井上先生は私も存じ上げていた先生方であるが、難波先生を出すことと井上先生を出すことで自分の権威を高めようと虚しくあさましい努力を続けている。東洋医学の大研究家という印象を与えようともしているが、まともに医学を学んでいた事は、私は聞いてない。せいぜい整体師の資格があるくらいである。患者を取って腰痛、胃痛を治した事も聞いてはいない。大本教を除き、私を目標として真似ているとしか思えない。私がヒゲを生やせば、真似をする。私の中医学の医者と言えば、その跡を追い求めて皇漢医学の研究者という。私がアメリカでドイツのクルマに乗っていると巻き上げたカネでドイツのBMW を乗り回す。私の猿真似とパクリである。一体どういう人間なのだろう。気持ちが悪い。私はとにかく、私が生涯の師と仰ぐドクター尤をダシに使われた事が許せない。しかし、ドクター尤や神様を利用したことの因果応報は怖ろしいことになる。理屈では習った筈だが、本人の我欲で目が見え無くなったようだ。神様はカネやモノや肩書きに執着心を持つ者にはチカラを貸さない。宇宙のエネルギーも

秩序を乱す者にエネルギーを注ぐことはない。これからの人生を借金返済だけでも足りないものに加えて、このパクリの尤氏意拳をどのように処理して死を迎えるのか?時間はない。メシが、酒が美味いなんて言ってるヒマはない。借金返済に又返済意思のない借金をするのだろうか?なんでも真似とパクリの人生はすぐ破綻する。汚名を残す人生は、私には耐えられない。人生における価値観が問われている。私は汚名を選ばない。瞑想によって得た清貧と共栄共存と誠実を選びたい。巻き上げた汚ないカネも要らない。一時期乗った高級なクルマはもう乗らない。私が今欲しいモノは心と氣が通じる道場生、仲間と、もっともっと強く重い氣だ。その願いも毎日の絶え間ない瞑想と修練で叶えられる。私の人生の高みを目指して一生懸命に何時ものように

修練を繰り返す。このパクリの尤氏意拳は私の反面教師なのだ。こんな人間にはならない、こんな団体にはならない。

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秘密の秘技其の弐、追記

今週のお題「カラオケの十八番」未だ書き足らない。続きがある。自分に都合の悪い人間には、隠す、許可が無ければ見せないとする秘技がある武術の総師範、創始、と言うあまりにオトコらしくないこの自称武術家の行為は何を意味するか?普通のアタマを持つ持っているならば、すぐにわかるであろう。観ていて人ごとではあるが、実に情け無い。笑い話にもならない冗談のような話だ。奴が何時も、オトコには二度は無い、とか、オトコ、オトコと言っていた其の見せかけの哲学は何処に消えてしまったか。男じゃないから、男をかざす。いつも飾るばかりだ。もっとも本人の精神年齢が幼稚園児では、納得出来るが、齢は四十を越えている。四十を過ぎると、ホントの精神年齢の顔が表れると言うから、これからが見ものである。女の腐ったようなオトコと以前言った理由はこういうことである。二十五年前と何も変わら無い。学業も仕事も自分の、オトコの夢も見てくれだけが一人歩きする。内容が伴わない。足りない分は嘘で固めてごまかす。私から見れば幼稚園児だ。怒りの延長で言っているのでは無い。事実をありのままに話している。武術家に嘘は禁物である。文武両道と言えば良く聞こえるが、私の知り合ったダメ武術家武道家は文武両道ではなく、金武両道あるいは欲武両道であった。我欲やカネなど自分の本能をむき出しにして、自分のやりかけた事、責任を取らねばならない事はほっぽり投げて逃げる者ばかりだった。この神田吉隆も任せて下さい、と言った道場を閉めた後、借金返済を逃れる為に、逃げ回っている。訓練したことのない武術を勝手に作り上げて、名前だけ立派な団体を標榜して認められたいと必死だ。何時もそうだが、自分の分以上、能力以上のことばかり追い求めている。そして自分の目標に届かない時は、ウソでごまかす。そんな人生は何処かで破綻する。既に破綻しているが、自分の奢った口と本能の欲は満足させないといけない。これからますます破綻の度はひどくなって行く。もう誰も止められない。止められるのは自分である事も理解していない。もうこうなったらヤケクソだ。なるようになれと秘密の秘技の部分に幼稚園児のように私の悪口を書いているかもしれない。誰か入門者を装って、文面をコピーして送って来て欲しい。決して私は許可される訳は無いので、、、。

秘密の秘技

今週のお題「カラオケの十八番」最近、あのニセ団体を率いる神田吉隆秘技と言っていた動画をもう見ることが出来なくなったとの報告を聞いた。奴の許可が無ければ見られなくなったと言うのである。この報告を聞いた時、この動画を私に見られてサル真似と女の子のジャンプと批判されて、これはマズイと思って隠してしまったのだなと、すぐに思った。世間に オレは太田と同じことができる、オレも出来るんだぞ、と武術界と世間に認められたいとの、またアホな競争心がムクムクと湧き上がって来たか?世間に認められたくば、私が師母に認められたように私に認められないといけない。もっとも、私の道場生から借金して返済せずに逃げ回り、有りもしない師母との苛酷な訓練をしたと標榜して尤氏意拳を創設したと言ってる者を私が認めることなどこの神田吉隆が生きている間、そして死んでも、有り得ないが、、、。奴が苛酷な訓練を師母と何年もしたと言うならば師母から認められてしかるべきだ。この神田吉隆の意拳としての技倆、とましてや尤氏の氣功の実力など、私との訓練もそこそこに、バレバレのニセ団体を立ち上げる。しかもドクター尤の名前まで付ける前代未聞の仕業をした限り、そんな人間をどのようにして認めれば良いのだろうか?武術家武道家の前に人間として認められない。秘技だから隠したと言えば通じると思ってるのだろうか?月謝を取って、真に尤氏意拳と言うならば、真に空勁を操る姿を見せてもらいたい。尤氏意拳と言うなら空勁を使ってしかるべきだ。私が納得出来る技倆を見せてもらいたい。何故隠すのか理由を述べよ!!!

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站椿功は根性養成ではない

今週のお題「カラオケの十八番」站椿の話を既にしたのでもう少し掘り下げて見たい。以前武術関係者が書いていたものを読んで驚いたことがある。站椿は根性で立つ。根性を養う為にやる。と言うことであった。私が習った尤氏長寿養生功はそんな一次元的な根性論ではなかった。氣を養成する手段として中国の武術家の先人がついに辿りついた究極の修行法なのである。私の先輩で中国人武術家がいて、自分で一派を立てようとしてある日会合を開き賛同者を集めようとしていたので、どんなだろうと私も出席していた。到着するなり、今日は站椿を六時間もやっていた。と自慢話を始めた。中国人にはよくあるタイプで、またやってるなあと思ったものだった。ドクター尤はこんな時は、バーカ、站椿は六時間もやるものではない、せいぜい一時間で脳に最大の良い影響を与える時間と言うものがあって、それを教えたではないか。誰が六時間も立てといったのか?ともしドクター尤がその場にいらっしゃったなら、そのように言ったに違いない。と私は思う。ドクター尤がサンフランシスコに来てこの長寿養生功を教え始めた時は道場生の誰も何が何だか分からなかったと私は聞いている。この中国人武術家は集まってきた者を自分が一番だと言いたくて印象づけようとした行為だったのだ。そんな者たちは中国人に限らず、日本にもいるものだ。私のやっていることを真似て、同じ似たような事をホームページに掲載する。チカラが無いから氣も無いから、焦って、見よう見真似で一生懸命だ。私が見れば真のチカラと氣を使っていない事は一目瞭然だ。見るからに卑しく、あさましい。この先輩中国人武術家にも同じ嫌悪感を覚えたものだった。恥ずかしくは無いのだろうか?恥や外聞は武術家が一番に氣にするものではなかったか?情け無いことと思う。站椿に戻るが、私の経験では決して根性を養うものではなく、氣を養うもので、どのようにして一時間もの間立ち続けることができるのか?秘訣と秘密がある。自分の脳の状態を変えてしまうのだ。前にも言ったが苦しい姿勢も変性意識状態になると何とも無くなってしまう。私の修行のピーク時は膝を曲げて大腿四頭筋は床と平行になって、一時間経っても平気であった。自慢しているのではない。経験したことを伝えているのだ。そのような修行があって、今日本に戻り、教えていることができるのである。今の私が教えている道場生は私が経験したことと同じことをまた経験してその段階を上げていくのである。継承とはそういうことではないか?自慢して有りもしないことを作り上げて、自分を神格化して人集めをして一儲けなど企めば詐欺となる。人のやることを真似て二番煎じ、三番煎じをすれば、猿まね武術家と蔑まれる事になる。心すべきことと思う。ウソ偽りのない人生を歩めば楽しく、幸せだ。自慢してサル真似しては幸せになれる筈は無い。不良のエネルギーだから人生も不良となる。カネも集まらない。不満ばかりの人生となる。

EPISTEMOLOGY

今週のお題「カラオケの十八番」 私が日本で大学に通っていた時にフランス語の先生の講義を受けた時の印象が強く残っていて、未だにその内容を覚えている。哲学の Epistemology  の講義であった。その内容はどんな分野の学問であれ、深く、深く、掘り下げて地下の水脈に到達すると水質、水脈は同質であって、同じ水を得られるということである。今の私がそれを解釈すると、全く関係の無い分野あっても深く掘り下げると「真理」に到達する。同じ哲学的内容を共有出来ると理解出来るようになった。三十年間も氣を追求、研究して一流、超一流の科学者やその道の覚者とお話しさせていただく度にその思いを強くしている。綜合格闘家元世界チャンピオン、小笠原流弓道師範、ノーベル賞を狙う天文物理学者、全く違う分野であっても、一人一人の方の見識、物の見方、考え方が同じで、皆さんはジェントルマンであった。お話しした後の私の胸に残る爽やかさは今でも忘れられない。ところが、二流、三流の武術家、武道家そして科学者は話のあちこちにトゲがあり、競う心が見え隠れして、話しの途中で、話しの後で嫌な感情が残り私をイラつかせたものだった。おそらく、トコトンまで自分を追い込む修練もせずに科学者も研究もロクにせず、修行研究の目的がカネ勘定や我欲にまみれたものにすり替わってしまったのである。そんな者たちとは氣の交流も出来ぬまま、私の記憶から消えてしまった者たちであった。何か心身ともに氣が滞っていて、それが解決されていなかったのであろう。極度の緊張、猜疑心、硬さ、人前で氣で操られることへの恐怖心、操られた事を負けたと思う競争心など、私にしてみれば、人生の中でたった一度の氣の体感が出来るチャンスと思えば、いっときの羞恥心など取るに足らないものだと思うのだが。リラックスしているつもりでも極度に緊張する者もいる。人生で生まれて初めて、氣の交流で氣の体感をした方々はそれまでの世界観を一変させられて物事を全く違う角度で見ることができるようになって、自己の本来持っている能力に気づき、その能力を見事に開花させた人達もたくさんいる。またこの氣を無益な闘争の手段にしようとした者、立身出世の道具とした者もいる。宇宙のエネルギーでもある物を私利私欲に利用した者の結末はどのようなことになるか?一時的な結果だけに満足してしめしめと思っても、その後の人生が幸せになれるとは限らない。因果応報の結末が待っているだけである。氣は神のエネルギーでもあるから破壊、虚偽の方向性に向かえば自分の破滅に向かい、神の生成化育の方向性に向かえば良性のエネルギーを受けて自分の人生は好転していくのだ。全て自分の中の良心や判断に任せられているのである。嘘や虚偽は自己の破滅につながることは目に見えている。

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