孤独

今、入院した病院の個室にいてこの真夜中に起きて瞑想をしようとしてこれを書いている。真っ暗な中で、瞑想を一人行なうのは孤独に感じるかもしれない。しかし、まんざら悪いことでもない。たくさんの人の群れにいる時は対応に追われて孤独を感じずに時間に追いかけられるようなせかせかした時間であるが、真夜中一人、黙々と瞑想するは、自己による時間の支配者になって自分の自由になる唯一の王になれる時である。昨日起こった出来事の反省など考えの整理が出来て頭がスーツとスッキリして来る。心地良い時間が流れる。身体はポカポカと暖かく、頭の中ではスーツと風が吹いて気持ちが良い。孤独感は無い。周りの空気や身体の中で巡る氣の流れを感じて、氣と空気が自分の味方で友人となる。孤独ではない。このまま朝まで、ジッと動かずに氣と空気を心地良く感じながら、時間を支配する。時間と自己の立場が逆転する。普段は時間が自己を支配して、時間に追われる身ではあるが、今は私が時間を支配する。西洋人は古来、自然を支配しようとして科学を発展させて来たが、東洋人は時間を支配しようとして瞑想を極めて来たのかもしれない。身体の外に向かう方向性と内に向かうベクトルの先にはかなりの差が出来るであろう。西洋の賢人も最終的には瞑想かそれに準ずるものを自分に課して心と身体のバランスを取って来た。東洋人は直接的に瞑想を生活に取り入れて宗教や武術を発展させて来た。東洋の文化芸術の王道を行くと思えば、孤独など感じている暇などない。明日はやるべきことが幾らでもある。さあ、味方友人に会いに行こう。

パーソナリティ障害

なんらかの幼児期の出来事や親の愛情を受けなかった者が心に傷を負い、虚言癖を持ち、ウソをついて、自分に人の興味を引こうとする心、精神の病いのことである。こんな心の病いを持つ者はウソをつくことだけでは終わらない。役者顔負けの芝居も打つ。表の顔と裏の顔の両面のギャップには相当に差がある。上昇志向は激しく、感情の起伏も激しい。幼少期に親に甘やかされて、依存性の強い人生を歩むと、誰かに依存しないと生きていけない。人をだますのが、自分の中で正当化されて、詐欺まがいの行為をしても、悪いことをしているとも思わない。四十になっても、五十になっても、心の中身は変わらない。医師の心理療法が必要ではあるが、それを勧める者は誰もいない。武術武道の一派を立てて、吹けば飛ぶよな団体でも一応は宗家創始総師範と自称しているから下にいる者は、誰も何も言えない。死ぬまでこの心の病いを背負って生きねばならない。どんな心の病いがあろうとも犯した罪は償わねばならない。立派な社会人を装う限り、その責任はどこまでもつきまとう。法的な責任が問われる日は近い。

リハビリの先生の鼓膜

一か月ほど前に私の行っているデイケアでのリハビリの先生が言うには暑い日に十メートルの高さからダイビングをして、鼓膜を破ってしまったと言う。医者に行きましたか?と聞くと、耳鼻科で、今は鼓膜が破れているが、時間はかかるけども、いづれ治ることになる、と言われたと言う。私はそういうケースならば、氣功と鍼で治せますよと言うと、お願い出来ますか?と言うので、耳のツボを指で押して氣の流れを良くして、氣功のジャンプで耳に滞っていた邪気を取り除いたら、耳が急に聞こえるようになった。たまたま、耳鍼をひとつ持っていたので、耳のツボに置鍼をしてあげたのである。二週間ほど経って、リハビリの時間に先生が言う事には、医者から、もう鼓膜は塞がって治っていますと言われた、と言う。それは良かったですね、と私が言うと、鍼の効果に驚いて、耳鍼を注文して、これからも耳鍼を自分でしてみると言っていた。耳にあるツボは、不思議な奇跡的な効果がある。そのツボには自律神経を整える働きがある。あらゆる痛みや急性慢性の病いに卓効がある。私はアメリカの診療所では全ての患者に耳鍼を使った。とても良い結果が出た。このケースは鍼を使わなくとも治ったであろう。リハビリの先生が私をリハビリして、私はリハビリの先生をリハビリしたのであった。この先生に顔が会うと、お互いに顔がほころんで、信頼感で結ばれている。氣功の氣は、タヒチでもそうであったが、いつも人間関係をスムーズにして、信頼感が生まれるのである。

告訴

尤氏意拳明光武道の自称宗家創始総師範神田真澄こと姜吉隆を告訴することにした。カネの不祥事を起こして十年逃げ回り、刑事事件で起訴出来ない、民事事件としての起訴も十年の時効が成立したので民事でも裁判を起こせない。こうなったら、私自身が裁判を起こすことで、このオトコの罪を問うしかない。徹底的に追い詰める。罪を犯して逃げ回り、いけしゃあしゃあと平然と食べて寝ることなど許さない。逃げ得ということなどないと言うことを思い知らせてやる。私がタヒチに移住するまであと二年ある。それまでに決着をつけたい。まず、自分の犯した行為について謝罪を請求する。そして私の名前を使って書いた借用書の作成の法的責任を問う。どんな社会であっても、社会的責任を伴う悪どい行為であって、犯罪と言える。私は法律の専門家ではないので法律の細かいところは知らない。法律の専門家に全て任せて法律でこのオトコの悪どい行為の違法性を問うしかない。どちらが正義でどちらが邪悪であるかハッキリさせることは日本の社会をひとつでも少しでも、明るくして、ウソのない社会を作ることになると信じている。

無差別殺人

日本は安全で安心な国ではなくなった。頭の狂った者が無差別に人を襲い、殺してしまう。以前にも言ったことだが、殺される前に身を守らねばならない。護身の為にも武術武道に半世紀を生きて来た私には、そしてアメリカで警察でも逮捕術を教えた私には人ごとではない。こうなったら、護身の為に催涙スプレーなどは合法化されて当たり前だろう。やられる前にやる!である。特に複数の男に攫われる女性には必要な無くてはならないものだ。日本もここまで堕ちてしまった。拳銃を持てとまでは言わないが、死んでしまっては何にもならない。アメリカでは殺人件数が日本とは比較にならないほど多いので、護身をして当然と言う環境にあるので、携帯スプレーなどを携帯することなど合法化されている。こんな事件が起こっているのでは、日本も考える必要があるだろう。私は善良な人間の生命財産を奪う犯罪を犯した者は絶対に許さない。私の周りにそんなことが起きれば、地の果てまで追いかけて償いをさせる。逃げ得は許さない。頰被りをして知らんふりをして逃げる者には鉄鎚を下すのである。正義を守ることには断固たる態度と努力と智慧が必要である。

進化

尤氏長寿養生功を教授している私は、教授する内容を画期的なものとして、より簡素化してさらに効果的な内容として、世界に拡大発展させようとしている。站椿功と座禅はそのままに、基礎訓練を私なりの解釈を加えて、老人や身体の弱い女性や病弱な人も楽しみながら、訓練出来る内容となった。氣功学校の教師養成の訓練内容も同時に簡素化された内容でも健康に効果的なメニューとなり、生徒や道場生の健康増進に役立つ。健康になって氣が巡るようになれば、自然に長寿が期待出来る。尤氏長寿養生功太田氣功道場の修練は勁空勁の技術共に基礎訓練の内容まで進化している。新生太田道場では私の下に集まる道場生に私の体験から来る進化したワザと基礎訓練でより一層健康を増して全員が長寿になると思われる。

強さと人間性

私の武術武道の修行とこの尤氏長寿養生功の習得と教授の中で出会った者達の中に強さを求めるあまり人間性が歪んだ者が結構の数がいた。この原因を考察すると、生い立ちがものすごく影響して、他の者を押しのけても、自分がトップになりたい、出世したい、社会の中で認められたいという歪んだ人間性を育んで育った経緯があることを私は知った。ある者はウソをついても、そういう地位を欲しがり、虐げられて育った環境の裏返しで、カネや名誉を求めて私の下に来た者がいた。私も家庭環境は極貧で無知無学の母親に育てられたが、武術武道を習う中に私の歪んだ人間性の発露は無かった。ウソをついてまで、カネや名誉や地位を欲しがったことはない。特に尤氏長寿養生功を教授するようになって、社会的な地位を確立したい、カネを儲けたい、自分の職業を尤氏長寿養生功のチカラで不動のものにしたいと、尤氏長寿養生功密教の即身成仏の現世利益の効果があるのを知ってか、集まって来る者がいることに気づいた。これは私には止められない。あまりに露骨にそんな醜い姿を見せられると人間性を疑ってしまうが、大抵のケースはほっとくことにしている。願わくば、正しいチカラを身につけて、正しく使ってもらいたいと願うしかない。が、他人を騙したり、師匠の私に明らかなウソをつく者は断固として許さない。武術武道を修める者の中には他人のカネやモノやオンナまで欲しがるケダモノのような者がいる。私は何人もそんな恥の無い者をこの五十年に及ぶ武術武道修行の中に見て来た。呆れ果てた人間性である。ある種のチカラを与えられるので、自制心のない者は自分が相当に偉くなったと思うのであろう。井戸の中に住むカエルのように狭い社会で天下を取ったよな気持ちになる。一般社会常識が無くなって、歪んだ人間性を武術武道の人間関係の中で遺憾なく発揮する。問題をいっぱい起こしてひんしゅくを買う。強くなりたいと言う気持ちは心の病いと裏合わせである。私の目指している、尤氏長寿養生功の目的は別なところにある。強さと言っても、他人を押しのける、他人に勝つ強さではない。自分の健康を保つ為の強さである。武術的な修行も相手に勝つ為のものではない。武術を人生の中で楽しむ為の訓練であって、競争するものではない。知性的で理性的な心を磨く手段となる、人生にとても役立つ養生法なのである。私自身は激しい弟子同士の競争の中で勝ち抜いた経験があるだけに、歪んだ人間性を育てる教育をしたくはない。カネやモノやオンナは一過性のすぐに消え去り、無くなってしまうもので、幻のようなモノに心奪われては武術武道の修行は長続きしない。私は尤氏長寿養生功を武術とか武道とは呼んではないが、ワザとその心は世界一であると誇りを持っている。私の知る限り、五十年に及ぶ武術武道修行の中に同じものなど無い。強くならなくとも良い。健康で、長寿になる。それが本当の真の強さである。